
斉の荘公(姜贖)は西周王朝の時代に即位し、春秋戦国時代に亡くなった斉の君主です。
斉の君主としては、後荘公と呼ばれる姜光も斉の荘公となっていますが、ここで紹介するのは、前の斉の荘公です。
史記の記述を見ると、斉の荘公の実績が書かれておらず、その時代に起きた周の東遷などの出来事が記録されるのみとなっています。
しかし、次代である斉の釐公の時代には、諸侯同盟が確認されており、斉覇の始まりとなっています。
こうした事情から個人的には、斉の荘公の時代から覇者体制の元になった体制があったのではないかと感じました。
斉の荘公と覇者体制に関しても、考察しました。
尚、斉の荘公は斉の歴代の君主の中で在位年数が64年を数え、最長となっています。
斉の荘公の時代の出来事
斉の荘公は父親の斉の成公が亡くなると、斉の君主になりました。
史記の斉太公世家には、次の記述があります。
これが史記の斉世家に書かれた斉の荘公の時代の話であり、斉の荘公に関する事は一切書かれていません。
斉の荘公は在位年数が64年もあり、斉の歴代の君主の中で、最長となるにも関わらず、実績が一切書かれていないわけです。
それでも、次代の斉の釐公の時代の元になる様な出来事があったと個人的には考えています。
斉の荘公の時代の考察
斉の釐公(僖公)の時代から会盟を開き、斉が盟主になったとも考えられています。
斉の僖公の時代に、斉の桓公による覇者体制の礎があった事が分かっています。
しかし、個人的には斉の釐公による諸侯同盟の構築の前に、斉の荘公の時代に元の様なものがあったのではないでしょうか。
西周王朝の本拠地の鎬京は関中にあり、最西端の地を本拠地にしていました。
それに対して、斉は海辺に近い国であり、最東端の国だったと言えます。
西周王朝の本拠地の鎬京から遠いという事は、それだけ西周王朝の影響を受けなかったのではないでしょうか。
こうした中で東方の国々は何かあった時の為に協力体制を築く必要があり、斉の荘公を盟主とする同盟が出来上がっていた様に感じています。
勿論、斉の荘公の頃に諸侯同盟があったとしても、斉の桓公の時代の様な同盟内諸侯の争いを禁じたり、離反したものを討伐する様な仕組みは無かったはずです。
それでも、緩い体制でも同盟があり、斉の荘公が盟主をしていた可能性はないでしょうか。
斉の荘公の在位は64年もあり、国内は安定し近隣の小国からは盟主として頼られた可能性があると感じた次第です。