鎌倉時代

船上山の戦い

2024年12月19日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

船上山の戦い1333年
勢力後醍醐天皇鎌倉幕府
指揮官名和長年佐々木清高
兵力150?3000?
損害不明不明
勝敗勝利敗北

船上山の戦いは後醍醐天皇と名和長年が幕府軍の佐々木清高を寡兵で破った戦いです。

一つの説として船上山の戦いでは幕府軍3千に対し名和長年の軍勢は150ほどしかいなかったとも言われています。

名和長年の軍勢は寡兵ではありましたが奮戦し、佐々木清高の軍勢を破りました。

船上山の戦いで苦戦する幕府軍を見て塩冶高貞、佐々木義綱ら山陰・山陽の武士が後醍醐天皇に味方し、朝廷軍が優勢になって行きます。

鎌倉幕府を滅ぼした重要な戦いの一つが船上山の戦いだと言えるでしょう。

後醍醐天皇が伯耆国に入る

鎌倉幕府に捕らえられ隠岐に流された後醍醐天皇ですが、護良親王楠木正成が挙兵し奮戦している話を聞くと隠岐を脱出する事になります。

後醍醐天皇は最初に出雲を目指しますが、入国出来ず伯耆を目指しました。

出雲を後にした後醍醐天皇は伯耆の名和湊に到着し、近隣の住民から名和長年の存在を知る事になります。

名和長年は身分は高くはありませんでしたが、財力があり後醍醐天皇は助けを求めたわけです。

名和長年が後醍醐天皇の要請に応じた事で、船上山の戦いが勃発する事になります。

船上山と兵糧

名和長年は三方が断崖絶壁で要害の地である船上山で幕府軍を迎え撃つ計画を立てました。

山の上に陣取り名和長年は敵を迎え撃とうとしたわけです。

名和長年は後醍醐天皇を船上山の本陣まで届ける必要があり、輿が無かった事で鎧の上から後醍醐天皇を背負って登った話もあります。

さらに、兵糧を船上山に届ける必要があり、名和長年は次の様に述べています。

名和長年「倉の内にある米穀一荷持ち運んだ者に五百文の銭を与える」

名和長年は自らの財産を後醍醐天皇に投資し、所有していた珍奇な物品なども民百姓に与え戦いの準備を急いで進めたわけです。

名和長年は財産を投げうっての戦いであり、1日で兵糧を船上山に届ける事に成功しました。

尚、名和長年は、船上山の戦いで勝てば莫大な恩賞が入り、負ければ滅亡と思ったのか家にあった財宝を全て民衆に配った話もあります。

防備を固める

船上山は三方向を山に囲まれ天然の要塞となっていましたが、それでも城は急ごしらえのものしかありませんでした。

太平記によると名和長年は木を切り倒して逆茂木としたり、簡略なものしかなかったわけです。

ただし、名和長年は軍勢が多く見える様に工夫した話があり、幕府軍にとってみれば実際の数以上の兵力に見えたのでしょう。

後醍醐天皇は綸旨を大量に発行し各地の武士を味方に付ける為に動きました。

名和長年の巧みな勝利

隠岐守護の佐々木清高は後醍醐天皇がいない事に気付き追手を出す事になりました。

佐々木清高は小浪城に入り拠点としています。

佐々木清高は3千の兵で船上山を攻撃し、これにより船上山の戦いが勃発する事になります。

名和長年としては兵力が少ない事がバレてしまうと問題であり、兵を分散して配置し、時々幕府軍に向かって矢を射かけた話が太平記にあります。

しかし、この矢が隠岐勢の大将の一人である佐々木昌綱に直撃し討死してしまった話があります。

太平記によると佐々木清高は挟み撃ちを考案しますが、別動隊は降服してしまいました。

佐々木清高は別動隊が降伏したとも知らずに正面から攻撃を仕掛けますが、雷鳴があり兵の士気が下がりました。

この時に好機到来と明かりに名和長年が攻撃を仕掛け朝廷軍の勝利が決まりました。

船山上の戦いは名和長年の勇猛さもあり後醍醐天皇が勝利したわけです。

倒幕を決定づける

幕府軍は寡兵の楠木正成が籠る千早城を落す事が出来ず、船上山の戦いでも名和長年に苦戦しました。

こうした中で後醍醐天皇に味方する武士たちが増える事になります。

出雲守護の塩冶高貞や佐々木義綱らが後醍醐天皇に味方し山陰・山陽地方の武士たちが朝廷軍に寝返りました。

佐々木清高は小浪城に籠りますが、名和長年や名和行氏の夜襲のあい戦いに敗れ越前の敦賀に逃亡しました。

さらに、鎌倉幕府の上級武士である足利尊氏細川和氏らの説得により、後醍醐天皇に味方する事になります。

足利尊氏が六波羅探題を陥落させ、関東では新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしました。

船上山の戦いで敗れた佐々木清高は六波羅探題の北条仲時と合流しますが、最終的に近江で最後を迎えています。

鎌倉幕府が滅びた事で後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。

建武の新政が始まると船上山の戦いで大活躍した名和長年は楠木正成千種忠顕、結城親光らと共に重用され三木一草と呼ばれる事になり、後醍醐天皇の寵臣となりました。

ただし、三木一草の全員が早い段階で亡くなっています。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細