名前 | 斯波家兼(しばいえかね) |
別名 | 千代鶴丸、時家、円承、長国寺殿 |
生没年 | 1308年ー1356年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:斯波宗氏 母:長井時秀の娘 兄:高経 子:直持、兼頼など |
年表 | 1354年 奥州管領に就任 |
コメント | 大崎氏の祖 |
斯波家兼は斯波高経の弟であり、最初は若狭守護となりました。
後の若狭守護が細川清氏に代替されると、奥州管領となり奥州に下向する事になります。
奥州では、既に吉良満家が奥州管領となっており、奥州管領二人制となりました。
しかし、吉良満家は政治力を発揮する事が出来なかったのか、斯波家兼に求心力が集まる結果となります。
斯波家兼は奥州に下向してから、2年ほどで亡くなってしまいますが、奥州管領大崎氏の礎を築いたと言えるでしょう。
大崎氏の祖は斯波家兼です。
若狭守護に就任
斯波家兼は斯波高経の弟であり、建武三年(1336年)7月に、足利尊氏により若狭守護に補任されました。
兄の斯波高経は越前守護となっており、新田義貞ら南朝の勢力と激闘を繰り返す事になります。
ここから斯波家兼は若狭守護を解任されたり、再任したりし、時には斯波高経の若狭守護代にもなりました。
康永四年(1345年)には正五位下となっています。
この時に、畠山国氏と共に奥州管領となる吉良貞家や、陸奥国大将となる石橋和義も正五位に昇進しました。
吉良貞家、石橋和義は斯波氏と同じく、足利一門の中では家格が高い部類となります。
観応の擾乱
室町幕府内で観応の擾乱が勃発すると、高師直は御所巻により足利直義の失脚に成功しました。
この時に、斯波家兼は引付頭人になっています。
しかし、足利直義が挙兵し多くの武士に支持され優勢となるや、引付頭人からは解任されました。
奥州管領に就任
足利尊氏は斯波家兼を若狭守護に再び補任しました。
斯波家兼を若狭守護に補任した理由は、北陸の直義派に睨みを利かせる為だったとされています。
文和三年(1354年)9月に、若狭守護は細川清氏に代わり、斯波家兼は奥州管領として奥州に下向する事になります。
細川清氏は戦いの度に怪我をしていた話がありますが、足利尊氏としてみれば忠臣であり、厚遇したかったのでしょう。
それと同時に斯波氏は所領も多く足利氏の中でも名門であり、兄の高経が隣国の越前の守護をしており、警戒すべき存在でもありました。
斯波家兼の奥州管領補任は栄転と見る事もでき、斯波氏で越前・若狭を固めない為の格好の理由にもなったのでしょう。
さらに、当時の奥州管領は吉良貞家でしたが、二人体制にする事でお互いを牽制させる狙いもあったと考えられます。
斯波家兼の奥州管領就任は、幕府にとっても様々なメリットがあったわけです。
石塔氏を滅ぼす
奥州では畠山国氏と吉良貞家の奥州管領二人制が布かれていましたが、観応の擾乱で吉良貞家は岩切城の戦いで、畠山国氏を滅ぼしています。
吉良貞家は南朝の北畠顕信が籠城する田村郡宇津峰城を陥落させ、奥州の大部分を支配し奥州の覇者となっていました。
しかし、畠山国氏の子の畠山国詮は反撃の機会を伺っていましたし、吉良貞家は直ぐに亡くなり、子の吉良満家が後継者になっていましたが、奥州は不安定な状況だったわけです。
斯波家兼が奥州管領に就任する頃の奥州は、各地で奥州の覇者になろうとする勢力がおり、予断を許されぬ状況だったと言えます。
尚、多賀国府には吉良満家がいた事から、斯波家兼は最初は伊達霊山城におり、後に河内志田師山を本拠地にしたと考えられています。
ただし、これらの記述は「留守家旧記」に書かれており、何処までが本当なのか分からない部分もある様です。
こうした中で過去に奥州総大将だった石塔義房の子である石塔義憲が、吉良満家がいる多賀国府を攻撃し、一時的にではありますが、占拠するなどの事件も起きています。
最終的に石塔氏は斯波家兼の攻撃を受けて、玉造郡赤栄館で滅亡した伝承も残っています。
吉良満家も多賀国府を奪還しました。
留守氏の知行を安堵
足利尊氏は留守持家に対し、所領安堵を行いました。
この施行状を奥州管領として発行したのが、斯波家兼です。
留守氏は観応の擾乱では尊氏派の畠山国氏を支持していましたが、岩切城の戦いで敗れ没落しました。
しかし、足利尊氏は自らの派閥として戦ってくれた留守氏に対し感謝しており、捨てておく事は出来なかったのでしょう。
こうした経緯もあり、留守持家への所領安堵が行われましたが、留守氏の所領は八幡氏に押領されており、返そうとはしなかったわけです。
斯波家兼は施行状を発行し、留守持家へ所領が返ってくる様に、取り計らったと言えます。
足利尊氏が吉良満家ではなく斯波家兼を通したのは、新たに奥州管領となった斯波家兼の権威を増す為ともされています。
それと同時に、斯波家兼の方でも留守氏を傘下に置く狙いがあったのでしょう。
足利義詮も凶徒退治の命令を斯波家兼に命じるなど、斯波家兼の求心力が上昇し、相対的に吉良満家の求心力は低下しました。
斯波家兼の最後
斯波家兼は奥州に下向してから2年後である1356年に世を去りました。
この時の斯波家兼は49歳だった事も分かっています。
遠田郡田尻の小松寺は斯波家兼の創建とも伝わっており、2年間の間にも寺社との関係を深くしたり、大崎地方とも関係を深めた事も知られています。
斯波家兼の子孫は大崎氏を名乗る事になります。
斯波家兼の嫡男である斯波直持は奥州管領の職務を引き継ぎ、弟の斯波兼頼は出羽郡最上郡に下向し、奥州最上氏の祖となりました。