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司馬曹達は倭から宋への使者となる

2024年3月21日

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宮下悠史

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名前曹達
別名司馬曹達
勢力倭国
主君倭王讃
年表425年 宋(南朝)への使者となる
コメント府官制により司馬となる

司馬曹達は倭の五王の一人である倭王讃の使者となり、宋への使者となった人物です。

司馬曹達に関しては、司馬が官職名であり曹達が名前だという事が分かっています。

倭王讃が宋から安東将軍に冊封された時に、曹達が司馬に任命されたのでしょう。

史書には倭王讃がどの様な官爵を授けられたのかは記述がなく不明ですが、曹達が司馬に任命されている事から、安東将軍に任命されたと考える事が出来ます。

司馬曹達に関しては謎が多く宋への使者になったこと以外は記述がなく不明です。

応神天皇の時代から弓月君などの渡来人が日本にやってきた話しがあり、司馬曹達も渡来人だったのではないかとも考えられています。

今回は倭王讃の使者となり宋への使者となった司馬曹達の解説をします。

司馬曹達の名前について

倭王讃は421年に朝貢により、倭国王・安東将軍に就任しています。

安東将軍になったという事は、開府が許されるわけであり、倭王讃は配下の者達に官職を与える事が出来る様になりました。

こうした事情もあり倭王讃は曹達を司馬に任命したのでしょう。

開府を行い配下の者達に官位を与える事を府官制と呼びます。

司馬曹達は倭王讃が府官制を行った事で、司馬になれたとも言えるはずです。

宋への使者になる場合にはトップの役人が赴くのが普通であり、司馬曹達は倭王讃に次ぐ位にあったとも考えられています。

尚、倭王讃は朝貢を行う時に、倭を姓とする中国風の倭王讃という名前を名乗っています。

同様に曹達も中国風の名前を名乗ったのではないかとする説もあります。

司馬曹達は何者なのか

司馬曹達が渡来人だったとする説があります。

三国志の世界を終わらせた西晋ですが、八王の乱で大混乱に陥り北方は異民族の手に落ちました。

朝鮮半島も例外ではなく西晋の出先機関であった帯方郡や楽浪郡は高句麗が占拠する事態となります。

こうした中で全ての漢人が南方の東晋に移れたわけではなく、朝鮮半島に残留した人々もいると考えられるわけです。

高句麗から逃れた者達が南下すれば百済があり、百済は中国系の人々を用いて国を整備した事が分かっています。

司馬曹達の先祖も西晋が滅びた時に朝鮮半島を南下した人々だとも考えられ、倭国に渡来人としてやってきたとも考えられます。

司馬曹達らは中国の技術を持っており、倭王讃の側近として取り立てられ自分達の立場を確保しようとしたともされているわけです。

こうした中で倭王讃は司馬曹達を取り立て府官制を導入し、確立したとも考えられます。

当時の倭国では稲荷山古墳出土鉄剣に見える様な乎獲居など姓を持たずに名前のみで記述されており、倭人の名に曹達の名が当てはまらない事からも渡来人だと考えられています。

曹達の主君である倭王讃の候補としては応神天皇、仁徳天皇、履中天皇のどれかではないかとされていますが、天皇に仕えた渡来系の側近が司馬曹達だったのかも知れません。

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