古代日本 古墳時代 天皇の治世

倭王讃は150年ぶりに朝貢を行った

2024年3月16日

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宮下悠史

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名前倭王讃
別名倭讃
時代古墳時代、宋(南朝)
生没年不明
コメント倭の五王の最初の一人

倭王讃は宋書や梁書に記録があり東晋や宋(南朝)に朝貢を行った人物です。

倭王讃は倭の五王の始まりの王として名が通っています。

邪馬台国の卑弥呼の時代に中華王朝の魏に朝貢し、記録では266年に倭の女王(台与?)が朝貢を行ってから150年ほど中国の歴史書から日本の記録が途絶えました。

266年から413年までの間を空白の150年とも呼びますが、空白の150年を朝貢という形で終わらせたのが倭王讃となります。

中国の史書の記述では倭王讃は簡略ですが、倭国王・安東将軍に冊封されたとも考えられています。

倭王讃は中国式の呼び名であり、日本では応神天皇だったとする説もあれば仁徳天皇、履中天皇だったのではないか?とする説もありはっきりとしません。

九州王朝説では倭王讃は大和王権とは別の九州王朝の王だったのではないかとも考えられていますが、九州王朝説は現在では下火であり支持する人は少ないと言えるでしょう。

今回は宋に朝貢し空白の150年を終わらせた倭王讃を解説します。

尚、倭の五王は下記の通りです。

倭王讃という名

倭王讃は後述しますが、宋の劉裕の詔から倭讃と呼ばれた記録が残っています。

倭讃は自ら名乗ったのであり、「讃」も自分で名付けたと考えられています。

中国王朝では中華思想があり周辺民族を蔑むのが普通であり、自ら名乗らないと「邪馬台国」や「卑弥呼」の様に「邪」や「卑」などの蔑称をつけられてしまう事がよくあります。

倭王讃の「讃」の字は褒め称えるや明らかにするなどの意味があり、好字だと言えるでしょう。

さらに、倭王讃は高句麗や百済の朝貢を模倣し中国風の名前を名乗った事になります。

倭讃の名は「倭」が姓であり、「讃」が名の中国風の名前を日本の天皇が対中外交用に名乗ったと考えられています。

高句麗が中国の王朝に朝貢する時は「高」を姓としており、高句麗に倣い「倭」を姓としたのでしょう。

ただし、倭王讃の「讃の文字に関しては謎があり、倭王讃が仁徳天皇だと考えたとしたら、仁徳天皇の名前である大鷦鷯(おおさざ)と読み方が似ているなど色々と言われている所です。

倭王讃に限らず倭の五王の特定は歴代天皇の系譜や漢字が似ている、読み方が似ているなどで比定しようとしますが、謎が多く確定してはいません。

413年の朝貢

共同入貢説

一般的には空白の150年は413年に倭国が東晋に朝貢した事で終わりを告げた事になっています。

晋書によれば、次の記述が存在しています。

※晋書(略記)

この年(413年)、高句麗、倭などが貢物を献上した。

上記の記述から倭国が高句麗と共に東晋に朝貢したとみる事が出来ます。

日本書紀の応神天皇の末期にあたる37年には、次の記述があります。

※日本書紀(略文)

応神天皇の37年に阿知使主と都加使主を呉に派遣し、高句麗王が久礼波と久礼志に道案内させた。

これにより呉に辿り着く事が出来た。

日本書紀では呉とありますが、三国志の呉があった場所を東晋は本拠地としており、呉が東晋を指す事は明らかでしょう。

日本書紀の記述では応神天皇の使者である阿知使主と都加使主が高句麗王の協力により入貢した事になっています。

高句麗と倭国が同時に朝貢した説を「共同入貢説」と呼んだりもします。

それと同時に応神天皇の37年が西暦413年だったのではないかとする説もあります。

413年に朝貢を行ったのが倭王讃だったとする記述が梁書にあるわけです。

高句麗による倭国偽使説

高句麗と倭による共同入貢説ですが、これには異論も出されています。

413年に高句麗では広開土王が亡くなり長寿王が即位しました。

広開土王碑を見ると分かる様に倭国と高句麗は20年近くも朝鮮半島を舞台に新羅や百済も含めて激闘を繰り返しています。

倭国と高句麗は何度も戦っているのに、そもそも共同で入貢するのだろうか?という疑問です。

応神天皇の37年の記述を見ると高句麗を倭国は懇意にしている様にも見受けられ、戦争を繰り返していた倭国と高句麗が突如として友好関係になってしまったのかの謎があります。

この謎を解く鍵が晋書の義熙起居注にあり、次の記述が存在しています。

※晋書 義熙起居注より

倭国がテンの毛皮と人参を献じた。

東晋の記録で倭国は413年の朝貢の時にテンの毛皮と人参(朝鮮人参)を献上した事になっているわけです。

テンは北海道には生息していましたが、当時の大和王権の勢力範囲での特産物ではなく高句麗の特産物だと言えるでしょう。

人参は朝鮮人参を指し、朝鮮半島やロシアの沿岸など高句麗の勢力範囲での産物となります。

テンの毛皮や朝鮮人参は倭国が貢物として東晋に贈れる様なものではなく、413年に倭王讃は東晋に朝貢を行ってはいなかったのではないかとも取れるわけです。

413年は高句麗の単独朝貢であり、高句麗が自勢力を大きく見せかける為に、倭国の者を引き連れて入朝したとする虚偽を報告したとも考えられます。

ただし、当時の大和王権は関東北部にまで勢力を拡げており、交易により蝦夷から北海道のテンの毛皮などは手に入り矛盾はないとする説もあります。

尚、413年の時に高句麗は官爵を得ていますが、倭国は何の官爵も得た記録がなく、こうした事からも高句麗による単独朝貢説が信じられている実情もあります。

413年と梁書の倭王讃

梁書倭伝には、邪馬台国の台与が266年に朝貢した後の記述として、次のものが存在しています。

※梁書倭伝より

その後、男王を立てて中国の冊封を受け、晋の安帝の時代に倭王讃がいた。

413年は東晋の安帝の時代であり、梁書の記述を見ると413年に朝貢したのは倭王讃だったとみる事も出来るわけです。

梁書では413年が倭の五王の始まりとしています。

梁書は姚思廉が父親の姚察の事業を引き継ぎ唐の時代に完成させた経緯があります。

姚思廉は陳、隋、唐という三王朝に仕えた人物でもあります。

413年に倭王讃が朝貢したとする記述は梁書にしかありません。

梁書は629年に完成しましたが、元の資料をそのまま書き出すのではなく、姚思廉がかなり手を入れて話の整合性を取った事でも知られています。

本来413年の倭の朝貢は誰によるものだったのか記録がなく不明でしたが、姚思廉が倭王讃にしてしまったのではないかとも考えられています。

これらの事から、413年に倭国の朝貢が倭王讃によるものではなかったとも考えられるわけです。

倭王讃の朝貢

421年の朝貢

420年に東晋の恭帝は禅譲により劉裕に皇帝の座を明け渡しており、これにより東晋は滅亡し宋が建国されました。

宋が建国した翌年である421年に倭王讃が朝貢を行っており、次の記述が存在しています。

※宋書倭国伝より

倭讃は万里の遠くから貢物を修めてくれた。

その真心は褒め称えるべき事であり、よって官爵を授ける。

上記の記述から倭王讃が朝貢を行い官爵を授けられた事が分かります。

皇帝の詔などは手を加えたりすることがないので、421年に倭王讃が朝貢したのは間違いないでしょう。

宋は東晋からの流れで貴族たちが強い力を持っていました。

劉裕は寒家の出身であり、己の軍事能力を頼りとし皇帝まで昇りつめた人物です。

こうした事から劉裕に対しては厳しい目も向けられており、劉裕としては1日も早く皇帝としての権威を確立したかった事でしょう。

421年の倭王讃の朝貢は遠方の地よりの朝貢という事であり、劉裕にとってみれば倭国の朝貢は己の徳が遠方まで響いている証にもあり、倭王讃の使者を歓迎したと考える事が出来ます。

倭王讃が宋に朝貢を行った理由

倭王讃が宋に朝貢を行った理由ですが、朝鮮半島の情勢と大きく関わっています。

日本書紀の神功皇后による三韓征伐広開土王碑、三国史記などの記録を見る限りだと、3世紀後半から4世紀前半において倭国は百済と同盟を結び、新羅や高句麗と朝鮮半島で激闘を繰り広げていた事は明らかでしょう。

こうした中で高句麗や百済は東晋に朝貢し高句麗は征東将軍となり、百済は鎮東将軍の将軍号を授与されています。

東晋が宋に代わると高句麗は征東大将軍、百済は鎮東大将軍と昇進しており、倭王讃も百済や高句麗に遅れを取らない意味でも宋への朝貢を行ったと考える事が出来ます。

倭国では朝鮮半島の鉄資源が非常に重要であり、朝鮮半島での権益を手放さない為にも、宋による権威付けが重要であり、倭王讃が朝貢を行ったとみるべきでしょう。

倭王讃の功績

倭王讃は425年にも司馬曹達を派遣し朝貢を行った事が分かっています。

421年に倭王讃が朝貢した時は、官爵が授けられたとは書かれていますが、官位名が記録されていません。

しかし、司馬曹達の名前から司馬が役職名である事は明らかであり、倭王讃は何かしらの将軍号を宋から授けられたと考えられています。

倭王讃の後継者となる倭王珍の記述からも、倭王讃は安東将軍・倭国王に冊封されたとするのが一般的です。

倭王讃は空白の150年を終わらせ倭と中国の国交を開いた革新的な統治者だったとも言えるでしょう。

倭王讃が朝貢した事で中国の先進的な官僚制や統治機構なども倭国に導入する事が可能となり、倭国の発展に貢献したとみる事も出来るはずです。

尚、430年にも倭が宋に朝貢を行っていますが、倭国王の名前に記載がなく誰なのかははっきりとしません。

430年に朝貢したのが倭王讃でないのであれば、倭の五王の六人目の人物がいた事にもなるはずです。

倭王讃の最後

倭王讃が没した年は分かっていません。

しかし、倭王珍が438年に倭王讃が亡くなった事を宋に通達している事から、438年までには倭王讃は亡くなっていたのでしょう。

倭王讃の陵墓ですが、倭王讃が大和王権のどの天皇を指すのかが不明であり、陵墓の特定は極めて困難な状態だと言えるでしょう。

ただし、倭王讃は応神天皇であれば誉田御廟山古墳に葬られたはずであり、仁徳天皇であれば大仙陵古墳に葬られているはずです。

倭王讃の時代は既に日本では古墳時代に入っており、どちらにしろ倭王讃の陵墓は巨大なものだったと考える事が出来ます。

倭王讃が崩御すると、弟の倭王珍が後継者となり、倭王珍も倭王讃の対中路線を引き継ぐ事になります。

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