名前 | 斯摩宿禰 |
読み方 | しまのすくね |
別名 | 斯麻宿禰、志摩宿禰 |
登場 | 日本書紀 |
斯摩宿禰は日本書紀の神功皇后の46年に登場し、倭国の使者として卓淳国に行った人物でもあります。
斯摩宿禰は卓淳国の王である末錦旱岐と面会し、百済の使者が卓淳国にやってきた事を知らされました。
そこで、斯摩宿禰は配下の爾波移や卓淳人の二人を百済に派遣しています。
爾波移らが百済にやってくると、百済の近肖古王は多いに喜び厚遇しました。
斯摩宿禰が機転を利かせ部下を百済に派遣した事で、大和王権と百済の間で国交が開かれたというべきでしょう。
百済の使者
神功皇后は治世の46年に斯摩宿禰を卓淳国に派遣しました。
卓淳国は朝鮮半島南東部の大邱にあったと考えられている国です。
斯摩宿禰は卓淳国の王である末錦旱岐と会うと、次の様に言われました。
※日本書紀より
末錦旱岐「甲子の年7月中旬に百済人の久氐、弥州流、莫古の三名が我が国を訪れ、次の様に言われました。
『百済王は東方に日本という尊い国があると聞き、我等を遣わし、その国に行かせようとしました。
我々に道を教えて通して貰えれば、我が君は卓淳国の王を徳とするでしょう』と」
末錦旱岐の話だと斯摩宿禰が卓淳国に到着する2年ほど前に、百済王の使者である久氐、弥州流、莫古がやってきたと伝えたわけです。
さらに、末錦旱岐は斯摩宿禰に久氐らには、次の様に伝えたと述べました。
末錦旱岐「以前から東方には貴い国があるとは聞いているが、まだ交通が開けておらず、その道が分からない。
海路は遠く波は険しい。
大船に乗れば何とか行く事は出来るとは思うが、例え中継地点があったとしても、行くのは難しい事だ」
末錦旱岐の答えに久氐らは「一旦帰国し、船を用意して出直す」と述べ、さらには、倭国の者がやってきたら、次の様に伝えて欲しいと述べました。
久氐「もし貴い国の使者がやってきたら、我が国にも知らせて欲しい」
久氐らは自分達が日本に行けないと悟ると、百済に帰還しました。
久氐らが卓淳国にやってきた2年後に、斯摩宿禰がやって来た事になります。
百済の朝貢
斯摩宿禰は末錦旱岐の話を聞くと、部下の爾波移と卓淳の過去(わこ)の二人を百済に派遣されました。
この時に斯摩宿禰は卓淳国に留まり、爾波移の帰還を待つ事にしたのでしょう。
斯摩宿禰の使者である爾波移はやってくると、百済の近肖古王は多いに喜んだとあります。
近肖古王は爾波移に財物を与えました。
爾波移は近肖古王から財物を多く見せられ、斯摩宿禰の元に帰還しました。
斯摩宿禰は爾波移の報告を聞くと、日本に帰国する事になります。
斯摩宿禰が機転を利かし部下を百済に派遣した事で、日本と百済の間で国交が樹立されたわけです。
日本書紀を見ると百済は新羅と共に、大和王権に朝貢する立場となった事が記録されています。
尚、斯摩宿禰の記録は、ここで途絶えていますが、後に登場する千熊長彦との同一人物説が存在します。