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斯摩宿禰は倭国と百済の国交樹立に貢献

2023年8月16日

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宮下悠史

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名前斯摩宿禰
読み方しまのすくね
別名斯麻宿禰、志摩宿禰
登場日本書紀

斯摩宿禰は日本書紀の神功皇后の46年に登場し、倭国の使者として卓淳国に行った人物でもあります。

斯摩宿禰は卓淳国の王である末錦旱岐と面会し、百済の使者が卓淳国にやってきた事を知らされました。

そこで、斯摩宿禰は配下の爾波移や卓淳人の二人を百済に派遣しています。

爾波移らが百済にやってくると、百済の近肖古王は多いに喜び厚遇しました。

斯摩宿禰が機転を利かせ部下を百済に派遣した事で、大和王権と百済の間で国交が開かれたというべきでしょう。

百済の使者

神功皇后は治世の46年に斯摩宿禰を卓淳国に派遣しました。

卓淳国は朝鮮半島南東部の大邱にあったと考えられている国です。

斯摩宿禰は卓淳国の王である末錦旱岐と会うと、次の様に言われました。

※日本書紀より

末錦旱岐「甲子の年7月中旬に百済人の久氐、弥州流、莫古の三名が我が国を訪れ、次の様に言われました。

『百済王は東方に日本という尊い国があると聞き、我等を遣わし、その国に行かせようとしました。

我々に道を教えて通して貰えれば、我が君は卓淳国の王を徳とするでしょう』と」

末錦旱岐の話だと斯摩宿禰が卓淳国に到着する2年ほど前に、百済王の使者である久氐、弥州流、莫古がやってきたと伝えたわけです。

さらに、末錦旱岐は斯摩宿禰に久氐らには、次の様に伝えたと述べました。

末錦旱岐「以前から東方には貴い国があるとは聞いているが、まだ交通が開けておらず、その道が分からない。

海路は遠く波は険しい。

大船に乗れば何とか行く事は出来るとは思うが、例え中継地点があったとしても、行くのは難しい事だ」

末錦旱岐の答えに久氐らは「一旦帰国し、船を用意して出直す」と述べ、さらには、倭国の者がやってきたら、次の様に伝えて欲しいと述べました。

久氐「もし貴い国の使者がやってきたら、我が国にも知らせて欲しい」

久氐らは自分達が日本に行けないと悟ると、百済に帰還しました。

久氐らが卓淳国にやってきた2年後に、斯摩宿禰がやって来た事になります。

百済の朝貢

斯摩宿禰は末錦旱岐の話を聞くと、部下の爾波移と卓淳の過去(わこ)の二人を百済に派遣されました。

この時に斯摩宿禰は卓淳国に留まり、爾波移の帰還を待つ事にしたのでしょう。

斯摩宿禰の使者である爾波移はやってくると、百済の近肖古王は多いに喜んだとあります。

近肖古王は爾波移に財物を与えました。

爾波移は近肖古王から財物を多く見せられ、斯摩宿禰の元に帰還しました。

斯摩宿禰は爾波移の報告を聞くと、日本に帰国する事になります。

斯摩宿禰が機転を利かし部下を百済に派遣した事で、日本と百済の間で国交が樹立されたわけです。

日本書紀を見ると百済は新羅と共に、大和王権に朝貢する立場となった事が記録されています。

尚、斯摩宿禰の記録は、ここで途絶えていますが、後に登場する千熊長彦との同一人物説が存在します。

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