三国志 魏(三国志)

親魏大月氏王とは何か

2023年10月27日

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宮下悠史

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名前親魏大月氏王
読み方しんぎだいげっしおう
年表229年 クシャーナ朝が魏に朝貢し親魏大月氏王に封建される

親魏大月氏王は正史三国志に記載があり、クシャーナ朝のヴァースデーヴァが魏から与えられた称号です。

親魏大月氏王という名前から、遊牧民の月氏や大月氏国に与えられた称号だと思われがちです。

しかし、実際に親魏大月氏王の称号が与えらえたのは、クシャーナ朝となります。

尚、正史三国志において親魏●●王とあるのは、倭国の卑弥呼に贈られた親魏倭王と親魏大月氏王の二つだけです。

高句麗や韓族、濊なども中華王朝から「王」と呼ばれる事はあっても、親魏の文字が入る事はありません。

それを考えれば、親魏大月氏王と親魏倭王の二国は魏から特別な扱いを受けていたとも考えられるはずです。

ただし、クシャーナ朝と倭国は遠く離れており、魏と戦争になる可能性は極限まで低く、遠方故に親魏大月氏王の称号を与えたのではないか?とする説もあります。

魏に朝貢

親魏大月氏王に任じられる

西暦227年から蜀の諸葛亮による北伐が始まりました。

諸葛亮の北伐を防ぐために、魏の曹真は大将軍に任じられています。

諸葛亮の北伐が盛んに軍を北方に向けていた時期に、次の記述が存在します。。

※正史三国志 明帝紀より

大月氏国の王、波調が使者を派遣し貢物を献上して来たので、波調を親魏大月氏王に任じた。

これが229年の事であり、正史三国志の本文をそのまま読めば大月氏国の王である波調が朝貢し、魏の曹叡は親魏大月氏王に封じた事が分かります。

大月氏国と言えば、漢の武帝の時代に張騫が派遣された事が有名ですが、張騫が派遣された大月氏国と、魏に朝貢した大月氏は正確にいえば別物です。

匈奴に攻撃された月氏が西遷し大月氏となりました。

大月氏ですが、5つの部族に支えられており、その中のクシャン族が勢力を拡大させ大月氏にとって代わりクシャーナ朝が出来たわけです。

親魏大月氏王となっていますが、実際にはクシャーナ朝に与えた称号となります。

尚、正史三国志の本文にはクシャーナ朝の主君の名前は波調となっていますが、時代的に考えてクシャーナ朝のヴァースデーヴァだと考えられています。

クシャーナ朝が魏に朝貢した理由

クシャーナ朝が魏に朝貢した理由ですが、ササン朝に圧迫されていたのが原因だと言えます。

クシャーナ朝はカニシカ王の時に全盛期となりますが、孫のヴァースデーヴァの時代になるとササン朝に押される事になります。

西のササン朝の勢力に圧迫されたクシャーナ朝は東の魏との挟み撃ちだけは避けたいと考え、魏に朝貢したとする説があります。

尚、魏とクシャーナ朝は遠く離れており戦いにはならないと思うかも知れませんが、後漢の班超はクシャーナ朝の軍と戦っており、魏とクシャーナ朝が対決する可能性がゼロではなかったわけです。

魏としても蜀漢の諸葛亮が西涼などの異民族を手を組み侵攻してくるから、西涼方面の異民族への牽制という意味でもクシャーナ朝に価値を感じていたのでしょう。

魏からクシャーナ朝に授与された親魏大月氏王は、双方の思惑が一致した結果として任命されたものでもあったわけです。

ただし、クシャーナ朝は親魏大月氏王となってもササン朝の猛威に抵抗する事が出来ず、30年もしないうちに属国の様な状態となってしまいました。

倭国の卑弥呼狗奴国に苦戦していたとも考えられ、親魏大月氏王、親魏倭王の両方に苦難があったと言えそうです。

親魏倭王との関係性

曹真の功績

西では親魏大月氏王が封建されましたが、東では239年に邪馬台国卑弥呼が朝貢し親魏倭王に封じられました。

西のクシャーナ朝が親魏大月氏王、東の邪馬台国が親魏倭王で同格であったと考えるべきでしょう。

親魏大月氏王と親魏倭王を考える上で重要なのは、クシャーナ朝を朝貢させたのは誰の功績なのか?という事です。

普通に考えれば、クシャーナ朝を朝貢させ親魏大月氏王としたのは、諸葛亮の北伐を防いだ将軍である曹真の功績となります。

実際に229年の諸葛亮の第三次北伐では、蜀の陳式の働きもあり蜀は陰平と武都を取り蜀軍の勝利となっています。

しかし、230年に曹真は戦いに敗れたにも関わらず、大司馬に昇進しているわけです。

曹真が大司馬に昇進するには、蜀との戦いでの負けをチャラとし、上乗せできる様な功績が必要だったと考える事が出来ます。

それを考えれば、229年にクシャーナ朝が朝貢し、波調を親魏大月氏王に任じる事が出来た曹真の功績が評価されたというべきでしょう。

尚、曹叡の死後に曹芳が後継者となりますが、後を託されたのが曹真の子である曹爽と司馬懿だった事も親魏大月氏王と親魏倭王の関係に繋がってきます。

司馬懿の功績

239年に司馬懿は遼東の公孫淵を破ると、倭国の女王である卑弥呼が朝貢してきました。

公孫淵が滅んだ事で卑弥呼が朝貢して来たのであれば、卑弥呼を朝貢させた功績は司馬懿にあると考える事が出来るはずです。

上記がクシャーナ朝と倭国の国力を纏めてみたものです。

因みに、魏の洛陽からクシャーナ朝までの距離は16370里であり、倭国の邪馬台国までの距離が17000里となっています。

魏の使者は1日に50里進まなければいけない決まりがあり、クシャーナ朝までの16370里は比較的正確だったと考えられているわけです。

これを考えると、親魏大月氏王のクシャーナ朝よりも親魏倭王の倭国の方が国力が上で距離が遠い事になっています。

親魏大月氏王よりも親魏倭王の方が距離を遠く、国力を上としたのは政治背景と関係があるとする見解があります。

司馬懿の孫の司馬炎は魏から禅譲により西晋を建国しました。

司馬懿は西晋の基礎を築き上げた人物であり、ライバルであった曹爽の父・曹真の功績よりも上に見せかける為に、わざと親魏大月氏王よりも親魏倭王の方を上としたとする説です。

正史三国志を書いた陳寿は西晋の役人でもあり、政治的な配慮として司馬懿の功績を盛り、親魏大月氏王よりも親魏倭王の方が上であるかの様に見せかけたとする説があります。

ただし、これらはあくまでも想像の類のものであり、真意は不明としか言いようがありません。

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