晋の穆侯は周の宣王の軍事行動に参加した事も分かっており、西周時代の頃から晋と周王室が密接な関係にあった事が分かります。
史記にも晋の穆侯が軍事において成果を挙げた記録もあり、穆侯は軍事能力もあったのでしょう。
ただし、晋の穆侯は後継者である太子に「仇」という不吉な名前を付けて、末子に「成師」という縁起の良い名前を付けました。
後に晋は本家と分家の間で長い期間に渡り抗争が続きますが、原因は晋の穆侯とする見解もあります。
それでも、晋の穆侯は晋を存続させ王朝との関係も深いと考えられ、春秋時代に晋が飛躍する為の基礎を固めた君主とも言えるでしょう。
今回は晋の穆侯を解説します。
晋侯として即位
晋の穆侯は父親である晋の献侯が亡くなると即位します。
一説には晋の穆侯は即位すると絳を本拠地にしたとあります。
絳は晋の孝侯の時代に翼に改名されたとも言われていますが、長く晋の本拠地として栄えました。
史記によると晋の穆侯の4年(紀元前808年)に斉の公女の姜氏を娶り夫人としたとあります。
紀元前808年は斉の文公の時代であり、晋の穆侯と斉の文公の間で誼を結んだ事にもなるはずです。
長子と末子
史記によると晋の穆侯の7年(紀元前805年)に条を討ったとあります。
条は山西の安邑地方ではないかとも考えられています。
条の戦いに関しては勝ったとも負けたとも記録がありません。
しかし、条で戦った年に長子が生まれ「仇」と名付けました。
姫仇が後の晋の文侯となります。
晋の穆侯がなぜ「仇」という不吉な名前を付けたのかは不明ですが、一説によると条との戦いにおいて苦戦したのではないかと考えられています。
条との戦いでは苦戦したかも知れませんが、紀元前802年の千畝での戦いでは大勝しました。
千畝での戦いの年に末子が生まれ戦勝によほど嬉しかったのか「成師」という縁起のよい名前を付けたわけです。
この成師が晋の曲沃分家の初代となります。
史記には大夫の師服が太子の名前が「仇」で末子の名前が「成師」である事から、晋が乱れる事を予見した逸話があります。
晋の穆侯の「穆」には「過ち」という意味があり、何を間違えたかと言えば長子と末子の名前を指すのかも知れません。
晋の穆侯の最後
史記によれば晋の穆侯は在位27年で死去したとあります。
晋の穆侯は紀元前785年に亡くなったのでしょう。
晋の穆侯が亡くなった時に、太子の姫仇は晋侯になる事が出来ず、弟の殤叔が晋侯の位を奪ってしまった話があります。
殤叔が位を奪ってしまった事を考えると、晋の穆侯の死は突然死であり、殤叔が不意を衝いて君主になってしまった可能性があるはずです。
晋の穆侯が亡くなった時に、晋で混乱があった事は間違いないでしょう。
後に姫仇は殤叔を倒し晋の文侯として晋の君主となりました。
北趙晋侯墓地第六四号墓
中国の山西省に西周王朝の頃の晋侯の墓地が発見されており、北趙晋侯墓地第六四号墓が晋の穆侯の墓だと考えられています。
北趙晋侯墓地第六四号墓から楚公逆鐘が出土し、話題になりました。
楚公逆は楚の熊咢ではないかと考えられています。
晋の穆侯の墓に楚公逆鐘が出土したのは、戦勝での戦利品として得たのではないかともされているわけです。
周の宣王の時代であっても楚は脅威があり交戦も行っていたのでしょう。
先代:献侯 | 晋の穆侯 | 次代:殤叔 |