
晋(曲沃)の武公は、春秋時代の曲沃及び晋の君主です。
曲沃の武公の時代は圧倒的に、分家である曲沃が本家の翼を圧倒していました。
しかし、東周王朝の横やりもあり、中々滅ぼす事が出来なかったわけです。
それでも、曲沃の武公は東周王朝の懐柔にも成功し、遂に晋侯緡を滅ぼし晋の統一に成功しました。
史記には、桓叔が曲沃に封じられてから晋を滅ぼすまでに、おおよそ67年掛かったと記録しており、半世紀以上も続いた内乱に終止符を打ったと言えるでしょう。
東周王朝にも認められ、晋の武公となりますが、僅か2年で没しました。
生涯を晋の統一に捧げた人物でもありました。
曲沃の武公が即位
紀元前716年に曲沃の荘伯が亡くなると、子の姫称が曲沃の君主となりました。
これが曲沃の武公であり、後には晋の武公と呼ばれる事になります。
曲沃の武公の時代になると、既に軍事力は本家の翼を圧倒しており、あと一歩で翼の本家を滅ぼせるかに見えました。
武公としても、翼の本家を倒す気満々だった事でしょう。
晋の武公が翼の本家を圧倒
紀元前710年に翼の晋の哀侯が陘廷に侵略行為を行い、陘廷の人々は曲沃の武公の助けを求めました。
曲沃の武公は出陣し、陘廷に布陣しています。
翌年である紀元前709年に戦いとなりますが、この時に曲沃の武公の御者が韓万であり、車右に梁弘だったと伝わっています。
曲沃勢は強く晋の哀侯を汾水の岸辺まで追い詰め捕虜としました。
戦いで敵の総大将である晋の哀侯を捕虜としており、大戦果を挙げたと言えるでしょう。
晋の翼の人々は、哀侯の子の小子侯を君主としました。
紀元前708年に曲沃の武公は韓万に命じて、晋の哀侯を処刑させています。
翼の滅亡と復興
紀元前705年には、晋の小子侯を誘き出して、殺害する事にも成功しています。
この時期になると、曲沃の武公の力が圧倒しており、晋の本家は抵抗する事が難しい状態になっていました。
春秋左氏伝には、紀元前704年に晋の武公が本家の翼を滅ぼしたとする記述もあります。
晋の武公は念願だった晋の本家を滅ぼす事に成功したと言えるでしょう。
しかし、同年に早くも周の桓王が動き出し、虢仲に命じて、晋侯緡を即位させました。
さらに、翌年である紀元前703年には、虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯が曲沃に攻め寄せて来ました。
曲沃の武公は晋の本家を滅ぼしたのは束の間の喜びであり、一転して危機に陥ってしまったと言えるでしょう。
それでも、晋の武公は連合軍の攻撃を持ちこたえました。
この後に曲沃の武公が何をしていたのか大半は分からなくなります。
分かっている事では、曲沃の武公は、周の蔿国と共に夷の国の夷詭諸を滅ぼしました。
晋の本家である翼の攻撃は控え、東周王朝との関係修復を考えて行動したのではないでしょうか。
それと同時に今回の敗戦や父親の荘伯を見ていて「軍事力だけでは晋の本家を滅ぼす事は出来ない」「下手をすれば自分が滅亡する」と悟った様に思います。
晋の武公の誕生
紀元前679年に曲沃の武公は動き出し、晋侯緡を滅ぼす事に成功しました。
史記によると曲沃の武公は周の僖王に、晋の本家の宝物を悉く賄賂として贈ったとあります。
曲沃の武公としても、東周王朝の認定無くして、晋の本家を滅ぼす事は出来ないと考えた為でしょう。
周の僖王は曲沃の武公を晋の君主として認めました。
これにより、晋の武公が誕生したと言えるでしょう。
晋の武公は諸侯として数えられ、60年以上も分裂した晋は一つに纏まりました。
史記には曲沃の武公が即位してから、既に37年が経過していたと書かれています。
先祖である桓叔、荘伯の夢を武公が実現させた瞬間でもあります。
晋の武公の最後
晋の武公は晋の君主として認められてから2年後の、紀元前677年に世を去りました。
生涯を晋の本家打倒のために捧げ、成就したと思ったら早い時期に亡くなってしまったのでしょう。
この辺りは、人生の儚さを感じる部分ではあります。
子の晋の献公が後継者となりました。
晋の献公は周辺の小国を幾つも滅ぼしましたが、その一方で驪姫を寵愛した事で国は乱れました。
武公が統一した晋は再び混乱の時代に入る事になります。
それでも、重耳が現れると、晋は覇者となり晋覇が沸き起こる事になります。
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