春秋戦国時代

秦の桓公は晋の困窮につけこんで攻撃した

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宮下悠史

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名前秦の桓公
本名嬴栄
生没年生年不明ー紀元前577年
在位紀元前603年ー紀元前577年
一族父:共公 子:景公

秦の桓公は春秋時代のの君主です。

秦の共公が亡くなると、即位しました。

秦の桓公の時代は、楚の荘公が強大となり、の主宰する諸侯同盟が揺らぎました。

こうした中で、秦の桓公は晋を攻める事になります。

秦の桓公も盟約の背き晋に攻撃したりもしており、晋との戦いは継続しました。

秦の桓公の時代は、晋の困窮に付け込んで、攻撃を仕掛けた時代だとも言えるでしょう。

蘇生した人間

史記に秦の桓公の3年(紀元前601年)に白狄がと講和し、晋と共に侵攻してきました。

ここで不思議な話が春秋左氏伝に掲載されており、晋は秦の間諜を捕らえ晋の首都である絳の市場で処刑しました。

しかし、何があったのかは不明ですが、殺されたはずの者が6日後に蘇生したとあります。

話はここで終わりますが、死んだ人間が生き返るとは思えず、何があったのかは不明です。

それでも、秦の穆公の後期に始まった秦と晋の戦いは、秦の桓公の時代になっても、継続されていた事は間違いないでしょう。

秦が晋に攻め込む

史記の秦本紀によると、秦の桓公の10年(紀元前594年)に楚の荘王が鄭と共に、の軍を黄河の畔で破ったとあります。

は晋に紀元前597年の邲の戦いでも、勝利しており強勢でした。

紀元前594年には宋も楚に降っており、楚の荘王は覇者となり、晋にとっては困難な時代でもありました。

春秋左氏伝には、この時に秦の桓公が晋へ侵攻した話が掲載されています。

の軍は輔氏に宿営し、晋の景公の軍は稷で軍勢を整えました。

ここで晋の魏顆が輔氏で秦軍を破る事になります。

秦では大力の士である杜回が魏顆により捕虜となりました。

春秋左氏伝には紀元前582年にも、秦の桓公が晋を攻めた記述があります。

秦は白狄と共に晋を討ったとありますが、諸侯が晋から離反した隙を突いたからだとしました。

晋は求心力を失っており、秦の桓公は晋に出兵したのでしょう。

盟約を破る

史記によると秦の桓公の24年(紀元前580年)に、晋の厲公が立ったとあります。

この年に秦の桓公は晋の厲公と、黄河を挟んで誓い合ったと言います。

が盟約を結んだのでしょう。

しかし、秦の桓公は国許に帰ると晋との誓いに背き、戎と共に晋を討ちました。

紀元前578年には、晋が報復のために諸侯を率いて、秦を攻撃しています。

秦軍は敗走し、晋の軍は追撃を行った上で引き上げました。

秦の桓公の最後

史記によると、秦の桓公は在位27年で世を去ったとあります。

紀元前577年に、秦の桓公は死去したという事なのでしょう。

後継者には、秦の景公が立ちました。

尚、春秋左氏伝にも秦の桓公が亡くなった記録はありますが「秦伯卒す」とあるのみで、詳細は記録されていません。

先代:共公桓公次代:景公

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