
| 名前 | 秦の景公 |
| 本名 | 嬴石 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前537年 |
| 在位 | 紀元前576年ー紀元前537年 |
| 一族 | 父:桓公 弟:后子鍼 子:哀公 |
| コメント | 中原への進出に頓挫した |
秦の景公は春秋時代の秦の君主です。
秦の景公の時代に、晋では名君と呼ばれた晋の悼公がおり、魏絳を重用するなど国をよく治めました。
晋の悼公の時代に晋は中原の統一を成し遂げており、秦の景公は諸侯連合に攻められるなど苦しい立場が続きました。
秦の景公は晋の平公の時代になると、和議を結ぶ事になります。
ただし、和議は結ばれましたが、同時に秦の中原進出の夢は頓挫したと言えるでしょう。
秦の景公の時代である紀元前547年以降に、秦は数代に渡り殆ど軍事行動を起こさなくなります。
秦晋戦争の継続
史記によると、秦の景公は即位し、その4年に欒書が晋の厲公を誅したとあります。
春秋左氏伝によると、紀元前564年に楚子が武城に出陣し、秦を援護したとあります。
ここでいう楚子は楚の共王であり、秦との同盟が継続し協力関係にある事が分かるはずです。
秦の景公は晋を討ったわけですが、晋では不作であり、反撃が出来なかったとあります。
秦の軍が戦果を挙げたとみるべきでしょう。
しかし、翌年である紀元前563年に晋の智罃が報復のために、秦に侵攻した記録があります。
秦楚同盟の継続
史記によると紀元前562年に秦は鄭を援け晋軍を櫟で破ったとあります。
春秋左氏伝には楚の子嚢が秦に出兵を願い、秦の右大夫詹が軍を率いて、鄭に侵攻したとあります。
しかし、鄭の簡公が楚に従った事で、共に宋を攻撃しました。
ここでも秦と楚の関係が良好な事が分かるはずです。
秦の景公と晋の悼公
史記の秦本紀には紀元前562年のもう一つの出来事として「晋の悼公が諸侯の盟主になった」とあります。
この年に晋と鄭の講和も成立しており、楚の北進政策も頓挫しました。
晋の悼公は中原を平定したと言ってよく、秦の景公にとっては危機的な状況でもあったのでしょう。
紀元前559年に晋は諸侯の軍を率いて、秦に侵攻しました。
秦の景公は応戦しますが敗走し、晋軍は涇水の西岸の棫林まで進軍しています。
晋の悼公は晋の最後の名君とも呼ばれる程の人物であり、秦の景公は苦戦したと言えるでしょう。
秦の中原進出の頓挫
史記によると紀元前550年に、秦の景公が晋に行き晋の平公と和睦したとあります。
しかし、そのすぐ後に「やがて、また背いた」とあります。
それでも、春秋左氏伝の紀元前547年の記録に、秦の景公の弟の公子鍼が和議の為に秦に行った話があります。
ここで晋の叔向と子朱が争い晋の平公は晋がよく治まると考えましたが、師曠は公室の地位が低下する事を予見しました。
晋の公室の弱体化が始まりますが、秦の景公と晋の平公の和議は成立した様であり、秦と晋の争いはやむ事になります。
ただし、見方を変えれば秦の代々に渡る中原進出の野望が頓挫したとも言えるでしょう。
尚、秦本紀によると秦の景公の36年(紀元前541年)に、楚王の郟敖が殺害され、楚の霊王が立った事が記録されています。
紀元前541年は秦の后子鍼が讒言により、晋に逃亡した年でもあります。
秦の景公の39年(紀元前538年)に楚の霊王が強大となり、諸侯を申に集めて盟主となり、斉の慶封を殺害したとあります。
秦の景公の最後
秦の景公は在位40年で亡くなったと記録されています。
紀元前537年に亡くなった事になるでしょう。
秦の景公が亡くなると、秦の哀公が即位しました。
春秋左氏伝には秦の景公の最後は「秦伯卒す」とあるだけです。
尚、秦の景公が亡くなると亡命していた后子鍼は秦に戻りました。