
秦の共公は春秋時代の秦の君主となります。
父親である秦の康公が亡くなると、秦の君主として即位しました。
秦の共公が即位すると、晋は趙穿は策を以って秦と和議を結ぼうとしています。
しかし、秦の共公は和議には応じませんでした。
父親である秦の康公と同様に、秦の共公も反晋を貫こうとしたのかも知れません。
秦の共公の最後は史記と春秋左氏伝では、1年のズレが確認されており、どちらが正しいのかは不明です。
秦の共公の即位と晋の働きかけ
秦の共公が即位すると、晋の方では秦に対し和議を求めた話が春秋左氏伝にあります。
父親である秦の康公の時代に秦と晋は何度も報復戦争を行っており、晋が紀元前614年に桃林塞を築く事で戦いは収まっていましたが、和議を結ぶには至りませんでした。
秦の康公は反晋だったのか、晋では和議は結べないと考えていましたが、共公の時代になれば和議が成立すると考えたのでしょう。
晋の趙穿が崇に侵攻すれば、秦は崇を助け、このタイミングで秦の共公に和議を申し込めば、成立する見通しでした。
しかし、春秋左氏伝には秦が和議に応じなかったとあります。
秦の共公の時代の出来事
史記の秦本紀を見ると、秦の共公の記述に関しては、共公の実績に関しては一切記録されていません。
しかし、秦の共公の時代に、起きたとされる出来事は記載されています。
紀元前607年に、晋の趙穿が主君の晋の霊公を誅したとあります。
前年に秦の共公に対し和議を申し込んだ趙穿は、翌年には主君である晋の霊公を殺害してしまったという事なのでしょう。
晋の霊公が亡くなると、晋の成公が立ちました。
紀元前606年に楚の荘王が北上し、洛陽に行った話があります。
楚の荘王の鼎の軽重を問うの話は、秦の共公の時代の話です。
秦の共公の最後
史記によると、秦の共公はその5年に亡くなったとあります。
秦の共公は紀元前604年に亡くなった事になるでしょう。
秦の共公が亡くなると、秦の桓公が後継者となりました。
史記だと紀元前604年に亡くなった事になっていますが、春秋左氏伝には、次の記述が存在しています。
※春秋左氏伝・宣公4年より
秦伯稲卒す
短い記述ではありますが、春秋左氏伝では魯の宣公の4年にあたる紀元前605年に亡くなった事が記述されています。
春秋左氏伝には秦の共公の死に対し経文のみであり、伝文がなく詳細は不明です。
| 先代:康公 | 共公 | 次代:桓公 |