西周

秦の荘公は西戎を討ち西垂大夫になった

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宮下悠史

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名前秦の荘公
生没年生年不明ー紀元前778年
時代西周
一族父:秦仲 子:世父、襄公、繆嬴
コメント西戎を討ち西垂大夫になった。

秦の荘公は周の宣王の時代の人であり、秦仲の子でもあります。

秦仲の戦死後に秦の荘公は兄弟五人と共に西戎を討ち勝利しました。

これにより秦の荘公は西垂大夫になるなど、西周王朝からの後継者として認められています。

秦の荘公が亡くなると、秦の襄公となり西周王朝は崩壊に向かう事になります。

五人兄弟

秦仲が西戎との戦いで戦死すると、周の宣王は秦仲の5人の子を呼ぶ事になります。

秦仲の五人の兄弟のうちで、長子が秦の荘公であり、残りの兄弟の名前は不明です。

尚、周の宣王は秦仲の五人の子を召しており、秦仲が亡くなった時点では、兄弟五人の中で誰が後継者になるのか決まっていなかったのではなかとされています。

周の宣王は秦の荘公も含めた五人の兄弟で西戎と戦い、一番功績が大きかった者を後継者にしたのかったのかも知れません。

西周時代の後期は関中の地でも異民族と激闘を繰り返しており、武略に優れた者こそがの後継者に相応しいと考えた可能性もあるでしょう。

この時点では秦の荘公を含む五人の兄弟で、同等の公位継承権を持っていたと考えられています。

父の仇を討つ

周の宣王は秦の荘公の兄弟五人に7千の兵を与えて、西戎を討たせる事にしました。

秦の荘公の兄弟五人は父の仇との戦いでもあり、雪辱に燃えたのではないかとも考えられます。

史記のよると、秦の荘公の兄弟らは見事に西戎を打ち破ったと言います。

史記の秦本紀では、秦の荘公らと西戎の間で、どの様な戦いが起きたのかは不明ですが、結果のみを書かれています。

秦の後継者として認められる

秦本紀によると、秦仲の旧封と大駱が領有していた犬丘の地を与え、西垂大夫にしたとあります。

史記では書き方が粗い訳ですが、秦の荘公を西垂大夫に任命し、秦仲の後継者として認めたという事なのでしょう。

さらに、犬丘の領有権は驪山之女の祭祀権を認めた事になります。

西戎との戦いに勝利した事で、秦の荘公はの後継者となり、他の兄弟よりも格上の人物として認められた事にもなります。

父子相続

秦の荘公は後継者になりますが、他の兄弟に公位継承権を放棄させたと考えられています。

秦の荘公には長兄の世父、次子の秦の襄公、繆嬴(女性)の三名がいました。

秦の荘公は世父を後継者にしたいと思っていた様ですが、世父が辞退した事で、秦の襄公が後継者となっています。

父親の秦仲が死んだ時点では、秦の荘公の兄弟は後継者候補になる位であり、かなりの力を持っていたと考えられています。

しかし、秦の荘公の後継者になったのは、子の襄公であり、兄弟での相続権を完全に否定したと言えます。

秦の荘公は父子相続に基づく公位継承を実施させた事にもなるはずです。

秦の荘公の最後

史記によると、秦の荘公は立って四十四年で亡くなったと言います。

それを考えれば、当時の人としては秦の荘公は、かなりの長生きをしたと言えるでしょう。

それと同時に、史記には書かれていませんが、当時の状況を考えれば、異民族との激闘を繰り返したはずです。

秦の荘公が没すると下の子である秦の襄公が後継者になりました。

秦の荘公が亡くなったのは紀元前778年であり、既に周の幽王の時代となり、西周王朝は崩壊に向かう事になります。

先代:秦仲秦の荘公次代:襄公

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