
秦の躁公は春秋戦国時代の秦の君主です。
秦の厲共公が亡くなった事で後継者になっており、秦の躁公の元年は紀元前442年です。
秦の躁公の時代は秦は南鄭で反乱が起きたり、義渠に渭水まで攻められたりもしました。
勢力拡大の時代と言うよりも、国を纏め保つ時代だった様にも感じています。
秦の躁公が亡くなると、弟の秦の懐公が後継者となりました。
秦では穆公から父子相続で来ましたが、ここに来て兄弟相続をしています。
秦の躁公が兄弟相続をしたのは、自分の子が幼かったか、子がいなかったかのどちらかではないでしょうか。
秦の躁公は記録が少なく兄弟相続を行った事と、南鄭や義渠と戦ったこと位しか分かっていません。
秦の躁公と義渠
秦の躁公は父親の厲共公が亡くなると、秦公として即位しました。
秦の厲共公は在位34年を数えており、年齢は記載されていませんが、秦の躁公は成人していたのではないでしょうか。
秦の躁公の2年(紀元前441年)に南鄭が叛いたとあります。
父親の厲共公の時代に南鄭方面に秦は進出しており、厲共公が亡くなると、好機と考え乱を起こしたのかも知れません。
秦の躁公の13年(紀元前430年)に義渠が渭水の北まで来攻したとあります。
義渠は秦の隣国の異民族であり、厲共公の時代には、義渠の王が秦の捕虜となっており、関係はかなり悪かったのでしょう。
それと同時に、義渠には、まだまだ秦と戦うだけの余力があった事が分かるはずです。
紀元前484年に南鄭が叛いたとありますが、これも義渠と関係しているのではないかと個人的には考えています。
秦の躁公の最後
秦の躁公は、その14年に亡くなったとあります。
史記の記述からみると、紀元前429年に亡くなった事になるのでしょう。
秦の躁公には、子が無かったのか弟の秦の懐公が後継者となりました。
秦の懐公は魏から迎えられて、秦公となっており、何故、秦の懐公が魏にいたのかは不明です。
秦の躁公に関しても、どの様に亡くなったのか?なども書かれておらず、不明としか言いようがないでしょう。