
晋の昭公は春秋時代の晋の君主です。
史記を見ると、晋の昭公に関する記述は殆どなく、実績に関しては春秋左氏伝をみないと分からない君主でもあります。
諸侯を集めて、平丘の会を主催しました。
史記にある様に、晋の公室は卑弱となり、晋の昭公が改革を実行し盛り返す事は出来ませんでした。
今回は、晋の公室が弱体化しない為には、何をすればよかったのか?なども合わせて解説します。
史記の晋の昭公
史記における晋の昭公は極めて簡略です。
※史記晋世家
昭公夷が立った。
昭公はその6年に亡くなった。
六卿の勢力が強く、公室が卑弱であった。
上記の記述を見ると分かる様に、史記の晋世家では、即位したのと亡くなった事が書かれているだけであり、実績などは一切分かりません。
それでも、晋の公室の弱体化が進んでいる事が分かるはずです。
春秋左氏伝の晋の昭公
肥を滅ぼす
春秋左氏伝によると、晋の昭公の時代である紀元前530年に、晋の中行呉が斉と合流する振りをして、鮮虞から道を借り、昔陽を攻撃し、肥を滅ぼしたとあります。
肥は晋の近隣の小国であり、晋の昭公は滅ぼす決断をしたのでしょう。
肥は白狄の国だと考えられています。
因みに、中行午は紀元前529年、紀元前527年に鮮虞を討ち戦果を挙げました。
晋の昭公の時代の代表的な将軍と言えば、中行呉だと言えるでしょう。
平丘の会盟
紀元前529年に晋では虒祁宮が完成し、諸侯が朝賀しましたが、帰国すると離反の心を抱いたとあります。
こうした中で魯が郠を占拠しました。
叔向が主戦派となった事で、晋の昭公も諸侯を集め、討伐する為に動く事になります。
この時に、晋の昭公は呉の余昧と会合を行おうとしますが、果たせなかった話があります。
それでも、晋の昭公は平丘に諸侯を集め会盟を行いました。
ただし、以前の晋の様に会盟を開いて、何処かを攻める事は無く、晋の覇権を確認する意味が強かったのでしょう。
ゴタゴタはありましたが、斉と魯も晋と和を結びました。
尚、春秋左氏伝によると子産が、この頃の晋の政治を「一枚岩になれずバラバラ」と評した話が残っています。
晋の昭公の時代である紀元前528年には、邢侯と雍子が争い、叔魚が邢侯に罪アリとする判決を出し、最終的に叔向の意見もあり、三人全員が亡くなった話も残っています。
晋の昭公の最後
紀元前526年に晋の昭公は亡くなりました。
春秋左氏伝には魯の昭公の十六年に「秋八月晋の昭公が亡くなった」と書かれているだけです。
ただし、魯の子服昭伯が晋の公室の弱体化を予想し、季平子が昭公の葬儀に参列すると、納得した話が残っています。
晋の昭公が亡くなると、晋の頃公が即位しますが、晋の公室はさらに弱体化しました。
晋の公室の弱体化について
史記でも春秋左氏伝でも、晋の公室が弱体化し、大臣である六卿が強大になる話が掲載されています。
晋の公室が弱体化しない為には、何をすべきだったのでしょうか。
子産が晋を評した「晋政多門」という言葉があり、晋の昭公を中心とした晋国全体での、一貫した行動も取り難くなっていたのでしょう。
晋の公室を強くする為には、公室の直轄地を増やす必要があります。
晋の公室の直轄地を増やすための一つの方法として、周辺の小国の領土を奪うというものがあるはずです。
しかし、晋は弭兵の会以降に肥などの異民族の国を攻撃しても、中原の諸侯国を攻撃する事はありませんでした。
さらに言えば、晋の昭公が小国を攻撃した場合は、小国は楚に靡き、楚を中心とする覇者体制が復活した可能性があるはずです。
晋の公室が周辺の国々を侵略出来ないのであれば、六卿ら晋の権臣の力を削ぐしかなくなります
足利義満が有力大名に対しやった事と、同じような事を晋の昭公や晋の平公は行うべきだったのではないでしょうか。
ただし、実践した場合には、六卿の反撃もあり、晋の厲公の様に命を落としてしまった可能性もあるはずです。
中華では徳が重視されており、君主としては、公室の権限を強くしにくい雰囲気もあった様に感じました。
晋の昭公や平公の時代は、空気として改革がしにくい部分もあったのでしょう。
ただし、晋の昭公の六年という短い在位の中で、改革は敢行出来なかった部分もあるのかも知れません。
| 先代:平公 | 昭公 | 頃公 |