
秦の徳公は春秋時代の秦の君主です。
兄の武公が亡くなると、秦公として即位しました。
徳公の時代に秦は雍に遷都し、梁伯と芮伯が来朝するなどしています。
祭祀も活発になりますが、秦の徳公は即位して僅か2年で没しました。
秦の徳公の長子である秦の宣公が後継者になっています。
秦の徳公の即位
兄の秦の武公が亡くなると、秦の徳公が立つ事になりました。
武公には白という子がいましたが、武公の弟の徳公が立ったわけです。
子の白ではなく、徳公が秦の君主として即位した理由ですが、過去に大庶長の三父が実権を握ったており、権臣が秦の公室を脅かすのを怖れた為ではないでしょうか。
秦の徳公は秦の君主に立った時の年齢が33歳だったと史記に記録されており、親政を行える年齢であり、幼少の白よりは徳公の方が君主として相応しいと考えたはずです。
雍に遷都
史記の秦本紀に次の記述が存在します。
※史記本紀(ちくま学芸文庫)より
徳公の元年、初めて雍城(陝西)の大鄭宮におり、犠牲300牢を供えて鄜畤(ふじ)を祀った。
雍にいることを卜すると、領地が広まって、後世、子孫は馬を河に飲わせるだろうとあった。
上記の記述から秦の徳公は即位して直ぐに、雍に遷都した事が分かります。
雍は長く秦の首都であり、戦国時代の秦の献公の時代まで秦の首都だったわけです。
梁伯・芮伯が来朝
秦の徳公の元年である紀元前677年に梁伯と芮伯が来朝した記録が史記にあります。
秦の実力は周辺国の梁や芮を圧倒しており、君主が秦に来朝したのでしょう。
秦の穆公の時代に西戎の覇者になったとも言われていますが、既に徳公の時代に下地があったとみるべきです。
伏の節
秦の徳公の二年(紀元前676年)に下記の記述があります。
※史記本紀(ちくま学芸文庫)より
初めて伏の節(六月の三伏の節。初伏の節に郭の四門で犬を殺して悪気を祓うた)をおこない、犬を殺して蠱をふせいだ。
上記の記述から、秦の徳公の時代に儀礼祭祀が活発になった事も分かるはずです。
秦の徳公の最後
史記によると、秦の徳公は立つこと2年で卒したとあります。
秦の徳公は紀元前676年に亡くなった事になるのでしょう。
秦の徳公は長期政権を期待されたと思われますが、即位して僅か2年で亡くなった事になります。
ここで弟の出子が生きていれば、出子が秦の君主になった可能性があると感じていますが、既に三父らにより誅殺されており、徳公には弟はいませんでした。
徳公には子が3人おり、長子が宣公、中子が成公、末子が穆公でした。
秦の徳公が没すると、長子の宣公が秦の君主となっています。
| 先代:武公 | 徳公 | 次代:宣公 |