
秦の悼公は春秋時代の秦の君主です。
父親である秦の恵公が亡くなると、秦公として即位しました。
秦の悼公の記録は春秋左氏伝にはなく、史記を頼るしかありません。
史記では秦の悼公の時代の出来事として、斉での政変や呉と晋が盟主の座を争った黄池の会の事が記載されています。
しかし、秦の悼公の実績に関しては記録がなく、実質として分かっている事が、即位した年と亡くなった年が分かる程度となっています。
つまり、在位期間しか分からないと言ってもよいでしょう。
子の秦の厲共公の時代になると、戦いなどもしており実績が分かる様になってきます。
ここでは、秦本紀の秦の悼公の時代の記述を元に記録する事にしました。
尚、秦の悼公の実績が全く記録されないのは、父親の恵公と同様に、戦争をしなかったからでしょう。
秦の悼公と斉の悼公
史記の秦本紀の秦の悼公の二年(紀元前489年)の記述として、斉では田乞が主君の晏孺子荼を殺害し、兄の陽生を立てたとあります。
陽生が斉の悼公です。
ただし、秦の悼公の六年(紀元前485年)に、呉が斉を破り、斉の悼公は誅され、斉の簡公が即位したとあります。
秦の悼公の父親である恵公の時代の出来事して、秦本紀では晋の混乱する様子を描きましたが、秦の悼公の時代では、斉が田氏により乗っ取られて行く様を描きました。
黄池の会
史記の秦本紀では秦の悼公の時代の出来事として、紀元前482年の黄池の会の記述が掲載されています。
秦本紀では呉王夫差と晋の定公が盟主の座を争い、呉王夫差を盟主とした話が掲載されています。
黄池の会は史記の、晋世家では呉を盟主とした話があり、呉世家では晋を盟主としたとあり、逆の事が書かれています。
しかし、秦本紀は、呉は南方におりながら強大であり、中国の晋を凌いだと記録しました。
これを見るに、黄池の会で盟主となったのは、呉王夫差だったのでしょう。
ただし、ここが呉王夫差の頂点であり、越の攻撃を受け転落して行く事になります。
尚、秦の悼公は黄池の会に参加していません。
史記では秦の悼公の時代の出来事として、斉の田常が簡公を殺害し、斉の平公が即位し田常が宰相になった事が記録されています。
他にも、孔子が亡くなった事や楚が陳を滅ぼした事が書かれました。
秦の悼公の最後
秦の悼公は在位14年で亡くなったとあります。
紀元前477年に秦の悼公は亡くなったのでしょう。
後継者として、秦の厲共公が秦公となりました。
秦の悼公の最後は春秋左氏伝にも書かれておらず、詳細は不明です。
| 先代・恵公 | 悼公 | 次代:厲共公 |