春秋戦国時代 西周

秦の襄公は本当に秦の礎を築いた人物なのか

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宮下悠史

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名前秦の襄公
生没年生年不明ー紀元前766年
時代西周王朝周の東遷
一族父:秦の荘公 兄妹:世父、繆嬴
コメント関中で激闘を繰り返し秦を建国した

秦の襄公は史記では、周の平王を洛陽に入れるのに功績があり、諸侯として認められた事が記録されています。

史記ではの建国者であり、秦興隆の礎を築いた人物として描かれています。

しかし、近年の研究で秦の襄公は、周の平王が洛陽に入る前に亡くなっていたとも考えられる様になりました。

周の東遷は西周王朝の崩壊の翌年に起きたのではなく、もっと時間を掛けて東遷したと考えられる様になったわけです。

実際の秦は西周王朝が崩壊する中で、関中で戦い続けて秦を建国したともされています。

後継者となる

秦の襄公の兄には世父がおり、本来なら世父が後継者になるはずでした。

しかし、世父は祖父の秦仲を殺害した戎の事を恨んでおり、の君主の座を辞退し、将軍となり戎と戦う事になります。

こうした理由もあり、秦の襄公が太子となったわけです。

秦の荘公が亡くなると、秦の襄公が後継者となりました。

秦の襄公は秦の君主となるや、妹の繆嬴が豊王に嫁いだ記録があります。

豊王は戎狄の王だと考えられており、秦の襄公は西周の時代から戎と独自の外交を行っていた事になるでしょう。

世父と戎

秦の襄公の即位の翌年には、戎が犬丘に攻撃を仕掛けてきました。

兄の世父が反撃しますが、捕虜となっています。

世父は秦仲の弔い合戦として挑んだのかも知れませんが、結果は敗れました。

しかし、1年程すると世父は釈放されています。

周の東遷

秦の襄公と史記の周の東遷

秦の襄公の時代に一大イベントがあり、周の幽王褒姒と戯れ諸侯の信頼を失いました。

さらに、周の幽王は太子の宜臼を廃した事で、申候とも対立していたわけです。

史記の秦本紀によると、西戎、犬戎、申候らが周を討ち周の幽王は驪山の麓で殺害されたとあります。

秦本紀では、この時に秦の襄公が奮戦し、周を援けたとあります。

さらに、周が犬戎の禍を避けるために、東の洛陽に入る時にも、秦の襄公は活躍があり、周の平王は秦の襄公を諸侯としたと記録しました。

周の平王は秦の襄公に岐山よりも西の地を与え「戎は無道にも我が岐・豊の地を侵略したが、は見事に戎を駆逐し土地を守った」と述べたとあります。

史記では秦の襄公は周の平王から爵位を与えられ、始めて国を建て諸侯と使節・聘門・享宴などの礼を通じたと記録されました。

秦の襄公は騮駒、黄牛、羝羊の三匹を供え、西畤を作成し上帝を祀ったと言います。

史記の記述を見る限りでは、秦の襄公は周の東遷において多大なる活躍があり、周の諸侯として認められた事になっているわけです。

秦の襄公と周の東遷の問題点

史記の秦本紀を読むと、秦の襄公は周が危機に陥っている時に、周を援けた事になっています。

さらに、秦の襄公は周の平王が洛陽に入るのも援けた事になっているのが分かるはずです。

秦本紀の記述から、秦は二度も周を援けた事になるでしょう。

史記の記述を見ると、秦の襄公は明らかに周の平王派ですが、周の幽王が犬戎らに殺害された時には、既に母親の実家である申にいました。

宜臼は太子を廃され身の危険を感じ、既に申すに亡命していたと言えるでしょう。

史記の秦本紀を見ると、周の幽王が亡くなると、直ぐに周の東遷が起こり、周の平王が東周を開いたかの様な記述になっています。

しかし、近年の研究では「こんなにすんなりと周の東遷が成されたわけではない」と考えられる様になりました。

史実だと周の幽王が亡くなった時点で後継者として立候補したのが、周の平王だけではなく携王鄭の桓公がいます。

史記では鄭の桓公は周の幽王の殉じましたが、実際には洛陽を占拠していたとされています。

周の東遷の記事で書きましたが、周の東遷が引き起ったのは周の幽王が殺害されてから、30年以上も経過してからです。

さらに言えば、その時代に既に秦の襄公は没しており、秦の文公の時代になっていた事も分かっています。

秦の襄公は周の東遷において活躍はなかったともされているわけです。

そうなると、西周王朝が崩壊した時に、秦の襄公は何をしていたのかが問題になります。

秦の襄公と秦の建国

は関中にあり、西周王朝の時代に豊と婚姻関係を結んでいた事が分かっています。

西周王朝が崩壊すると、関中は大混乱になった事は間違いないでしょう。

こうした秩序を失くした関中において、秦の襄公は秦を建国したのではないかと考えられているわけです。

そうなると、秦の襄公が周の平王を救い諸侯の封じられた話は、どうなってしまうのか?と思うのかも知れません。

秦の襄公の建国神話は、戦国時代の秦の恵文王の時代に創作されたとされています。

周王朝から正式に諸侯として認められたとする建国神話を作り、秦の国の正統性を高めようとしたのでしょう。

秦の襄公の最後

史記の秦本紀によると、秦の襄公はその十二年に、戎を討ち岐山の麓に行き亡くなったとあります。

戎を討って亡くなったとあり、戎との戦いにおいて戦死したとも考えられるわけです。

または戎を討ちに出陣したが、病気で亡くなったのかも知れません。

普通に考えれば戦死。よくても病死とみるべきです。

それでも、史記の文章からは戎と戦っている最中に亡くなった事が分かり、畳の上で平和に亡くなった様なものではない事は確実でしょう。

秦の襄公な亡くなったのは、西周王朝が滅びてから5年ほどしか経っておらず、関中もまだまだ混乱しており、秦と西戎の間で激闘が繰り返されており、こうした戦闘の中で秦の襄公は最後を迎えたと見るべきです。

先代:荘公襄公次代:文公

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