三皇五帝

蚩尤(しゆう)は黄帝と戦った民族

2021年5月31日

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宮下悠史

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蚩尤(しゆう)は、黄帝と戦った事が史記に記載されています。

黄帝は、蚩尤を破った事で、諸侯の信頼を得て、神農氏に代わり天下を治める様になった話があります。

こうしてみると、蚩尤は民族名に思うかも知れませんが、得体の知れない化け物の容貌だった話もあるわけです。

蚩尤は原泰久さんが描く漫画キングダムで、李信配下の羌瘣と関係を持たした事で、有名になったとも言えるでしょう。

尚、前漢の高祖である劉邦は蚩尤の祠を長安に建てさせた話があります。

劉邦は蚩尤の旗を作った話もあり、蚩尤に関しては特別な思いがあったのかも知れません。

項羽との戦いで苦戦し、困った時の神頼みで蚩尤の旗を作った可能性もあるでしょう。

因みに、1995年頃から中国にいるミャオ族の祖先が蚩尤ではないか?とする説が登場しています。

「苗族始祖蚩尤像」なども建立されていますが、個人的には蚩尤は伝説的な部分が多く、史実ではない様に感じています。

今回は、蚩尤を解説です。

蚩尤の容貌

「初楽記」で蚩尤の容貌に関しての記録があり、蚩尤は頭が大きく、腕と足が8本ずつ生えていたとあります。

「述異記」では、蚩尤は頭に角が生えていたとか、鋭い毛で蹄は牛、目が4つあり、腕が6本あったとされています。

他にも、蚩尤が鉄や石を食べたなど、蚩尤は人間の姿ではなく、化け物の姿として描かれたりするわけです。

さらに、蚩尤には72人(81人説)の兄弟がいたとされています。

これを見ると、蚩尤は人間に思えないかも知れません。

しかし、蚩尤は人間の言葉が、喋れたとあります。

尚、資治通鑑外紀によると、蚩尤は古の天子だったとするものもあれば、伯(覇者)だった説、欲深き庶民だった説もあり、話によって立ち位置が変わってくる状態です。

黄帝と蚩尤の戦い

黄帝(軒轅)と蚩尤は戦いを繰り広げる事になります。

世の中が乱れる

黄帝と蚩尤が戦ったのは、神農の世だった話があります。

神農は三皇の一人に数えられる事があり、世の中を治めていたわけです。

しかし、神農氏の徳が衰えると、諸侯が互いに討伐しあい世は乱れていきます。

諸侯同士の戦いにより民衆は困窮しますが、黄帝は神農氏に代わり従わない諸侯を討伐します。

黄帝の活躍により、天下は治まったかに見えましたが、蚩尤だけは凶暴であり、中々討伐する事が出来ませんでした。

ここで炎帝の子孫が反乱を起こし、諸侯の地を侵すと、諸侯は黄帝を頼りとします。

ここで黄帝は熊などの猛獣を訓練し、炎帝と戦いますが、阪泉の戦いで勝利します。

黄帝は炎帝に3度戦って勝利した記述もあります。

蚩尤が軍隊を組織する

黄帝は炎帝を破った事で、再び世の中が平和になったかの様に思われました。

しかし、ここで蚩尤が再び反乱を起こす事になります。

蚩尤は炎帝も誘って黄帝と戦おうとしますが、炎帝は「自分は年老いた」と言い蚩尤の誘いを断った話もあります。

蚩尤は炎帝どの連携は諦め、独自の力で黄帝の軍と戦う事を決意し、72人の兄弟や怪物、鬼神、九黎族、巨人族の夸父らに声を掛けて大規模な軍隊を組織しました。

ここでポイントになるのが九黎族であり、九黎族の君主が蚩尤だった説もあれば、九黎族の9人の君主が蚩尤の部下だった話も存在します。

九黎族に関しては、一つの部族ではなく少数民族の集合体だったのではないか?とも考えられています。

蚩尤は凶暴なだけではなく、頭もよく巨大な斧や優れた弓などの武器を味方の兵士に配り、軍隊を強化していきます。

蚩尤の動きに黄帝も捨て置く事も出来ずに、決戦を決意したわけです。

ここにおいて黄帝と蚩尤の戦いが勃発します。

尚、黄帝と蚩尤の戦いは、中原の黄帝の勢力と長江や漢水周辺にいた南方勢力・蚩尤の戦いだったのではないか?とする説もあります。

涿鹿の戦い

黄帝の軍と蚩尤の軍が涿鹿において戦う事になります。

これが涿鹿の戦いです。

蚩尤は嵐を巻き起こし、霧を立ち込めて黄帝の軍に攻撃を仕掛ける事になります。

黄帝の軍は蚩尤に苦戦し撤退する事になります。

黄帝は泰山まで軍を引き休憩をしていると、西王母の使者が訪れ、西王母の協力により軍隊を立て直す事に成功しました。

ここで再び蚩尤と黄帝の戦いとなりますが、蚩尤の繰り出す霧の前に黄帝は再び方角が分からなくなり、苦戦する事になります。

そこで黄帝は車の上に乗せた人形が常に南を向く、指南車を開発し、霧に迷う事が無くなります。

黄帝は霧を突破すると、蚩尤と決戦を挑み、蚩尤を破り捕虜とし処刑する事に成功します。

ただし、話によっては

黄帝は蚩尤を倒した事で、諸侯の信頼を勝ち取り、天子として即位する事になりました。

蚩尤との戦いが天下分け目の決戦だったとも言えるでしょう。

尚、蚩尤に味方して敗れた九黎族が南方に行き三苗人になり、後に中華の国々を苦しめた話しも残っています。

先に述べましたが、蚩尤は九黎族との関係が深い事から、長江周辺の勢力だった可能性もあるという事です。

これが一般的な蚩尤と黄帝の戦いです。

異説としては、蚩尤は黄帝の配下になった様な話しもあり、この辺りははっきりとしません。

因みに、黄帝を助けた西王母ですが、周の穆王の時代に再び名が見られる事になります。

蚩尤の墓

史記の封禅書に蚩尤の墓に関する記述があります。

始皇帝の時代の話であり、封禅書によれば、蚩尤の墓は東平(郡名)の陸監郷にあり、斉の西堺にあると記述されています。

さらに、蚩尤は兵主として祀ると書かれており、戦いの神になっている事が分かります。

後述しますが、蚩尤が金属から武器を作ったとする話もあるのです。

後漢書に蚩尤旗なる彗星が現れた記録があり、蚩尤旗が現れると王者が四方を征伐すると伝えられています。

蚩尤旗が現れたのは191年であり、ここから曹操が躍進して行く事になります。

日本の兵主神社は蚩尤を祀っており、日本に蚩尤を伝えたのは秦氏だとも言われている状態です。

蚩尤は日本では河童だったとする説も存在します。

蚩尤は存在したのか?

蚩尤が存在したかですが、分からないとしか答えようがありません。

考古学の調査により、甲骨文や殷墟などにより、殷王朝までは存在した事が明らかになっています。

しかし、夏王朝は遺跡などは確認が取れていませんし、夏王朝以前の三皇五帝がいたのかも明らかではありません。

その中で、化け物の様な容貌をした蚩尤が存在したと、考えるのは無理がある様に思いました。

春秋戦国時代諸子百家と呼ばれる学者が多くいたわけです。

孔子の時代では、最も古いのが五帝の最後の二人である堯や瞬の話であり、聖王とされています。

しかし、戦国時代になると堯や瞬よりも古い時代を突き止めたのか、道家の世界で黄帝が登場する事になります。

蚩尤や黄帝の時代は、初めて黄帝が書物に登場する1500年ほど前の時代になってしまう可能性があります。

その為、蚩尤が存在した可能性は低いとも言えます。

尚、管仲のやり取りが記録された管子では、蚩尤が金属を使い剣・鎧・矛・戟らの武器を開発した話が出てきますが、蚩尤が黄帝の臣下として登場し、蚩尤の行動も全ての書物で一致する訳ではありません。

その為、諸子百家の人々が自分の説を押し通す為に、作られたのが蚩尤の可能性もあります。

蚩尤はいたのかも知れませんが、実在は確認する事が出来ない状態です。

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