
| 名前 | 楚の武王 |
| 姓・諱 | 熊徹 |
| 生年 | 不明 |
| 在位 | 紀元前741年ー紀元前690年 |
| 時代 | 春秋時代 |
| 一族 | 父:霄敖 配偶者:鄧曼 兄:蚡冒 子:文王、屈瑕 |
楚の武王は春秋時代の楚の君主であり、史記によれば在位期間は51年もあった事が記録されています。
楚の武王の本名は熊徹ですが、漢の武帝の名が劉徹であり、「徹」の名を避けて熊通と呼ばれる事も多いです。
楚の武王は兄の蚡冒が亡くなった時に、蚡冒の子を殺害し楚王となった経緯があります。
しかし、即位した楚の武王は随を攻撃し、鄾国を滅ぼすなど勢力を拡大させました。
勢力を拡大した楚の武王は東周王朝に爵位を上げる様に要求しましたが、断られた事で自ら「王」を名乗る事になります。
楚の武王は在位期間の中で、漢水や清発水流域に勢力を拡大させた事が分かっています。
尚、楚の武王の最後は夫人の鄧曼が予言した話が残っています。
楚の武王の即位
史記によると熊通(楚の武王)は兄の蚡冒が亡くなった時に、蚡冒の子を誅して即位したとあります。
これが楚の武王です。
ここでは、まだ楚では王号を称していませんが、混乱を避けるために楚の武王の記述で話を進めます。
楚の武王は本来であれば後継者の立場ではなく、兄の子の太子を殺害し楚の後継者になったのでしょう。
紀元前741年に楚の武王は楚の君主となりました。
楚の武王の前半生
楚の武王が即位してからの前半生は、分からない事が多いです。
史記では、楚の武王の前半生として、次の記述があります。
・21年、鄭が天子の田の収穫を奪った。
・23年、衛の人が主君の桓公を誅した。
・29年、魯の人が主君の隠公を誅した。
楚の武王の在位は50年を超えますが、在位35年目(紀元前706年)に、随を攻撃するまで、記録がなく分からない事が大半です。
紀元前706年までの楚の武王の記録はなく、分からないとしか言いようがありません。
それでも、兄の蚡冒の子を殺害し、即位しているのであり、国内での反発も多かった可能性もあります。
楚随戦争
闘伯比の進言
春秋左氏伝によると、紀元前706年に楚の武王が随に侵攻したとあります。
楚の武王は大夫の薳章を派遣し、随と講和しようと考え、自身は瑕に駐屯しました。
隋では少師を講和の責任者としています。
楚の闘伯比は「随が傲慢になれば小国は随を見棄てて楚が有利になる」と説き、さらに「随の少師は傲慢で付け上がらせるべき」と説きました。
熊率且比が「随には季梁がいるから無駄」と意見しますが、闘伯比は「将来の為の計画」と述べ、楚の武王を納得させています。
楚軍はわざと陣容も乱した上で、随の少師と会見を行わせました。
少師は隋軍の本陣に戻ると「楚を追撃するべき」としましたが、季梁に諫められ随侯は内政を整えたとあります。
楚軍が大勝
闘伯比の策は失敗に終わったかに見えましたが、少師は随侯に気に入られる事になります。
紀元前704年に闘伯比が随を攻撃する様に進言しました。
楚の武王は沈鹿に諸侯を集めますが、黄と随が招集に応じず、楚の武王は自ら随を攻撃し、薳章には黄を攻撃させています。
楚の武王は漢水と淮水の間で、駐屯したとあります。
随では季梁の策を却下し、少師の短期決戦を採用しました。
楚と随の間で決戦が行われますが、ここでも随侯は季梁の策を却下し、少師の「正面からぶつかる策」を採用しました。
速杞で戦いが行われ楚の軍勢が随を圧倒する事になり、随侯は何とか逃れますが、少師は闘丹が捕虜にしました。
隋が楚と講和を望むと、楚の武王は一気に隋を滅ぼそうとしますが、闘伯比が諫めたので、随と盟約を結ぶ事になります。
楚の武王が王号を称す
爵位を上げる様に要求
史記に楚の武王が随を討った時に、随に次の様に述べた話があります。
※史記 楚世家より
楚の武王「我が国は蛮夷の国ではあるが、現在の状況を見るに諸侯は周に背き互いに征伐しあっている。
我が国にも粗末ながら兵甲があり、中国の形勢を見届けたいと思う。
貴国(随)から王室に、楚の爵位を高くするように頼んで貰いたい」
楚は随に対し有利に立っており、圧力を掛けて楚の爵位を上げる様に依頼したのでしょう。
随の人は東周王朝に頼みますが、王室は許さず、楚の武王は話を聞くと激怒し、次の様に述べました。
※史記 楚世家より
楚の武王「我が先祖の鬻熊は周の文王の師であったが、早くに亡くなってしまった。
それで、周の成王は先王(熊繹)を厚遇し、子男の領地を与え、楚に封じたのである。
現在の蛮夷はみなが楚の服従したのに、周王が楚の爵位を上げないのであれば、儂は自分で位を高くするだけの事だ」
楚の武王は、この時に王を称したとされています。
それと同時に、東周王朝を頂点とする枠組みからの離脱を宣言した事にもなるのでしょう。
史記では楚の武王は称王を行うと随と盟約し、帰国したとあります。
楚は濮の地を開拓し、領有しました。
この頃の楚は既に随を圧倒していたと言えるでしょう。
楚の称王と金文
史記を見ると、楚の君主は若敖、霄敖、蚡冒など、中華の国々と比べると明らかに文化が違っており異質な感じがするはずです。
中華では「●●公」や「〇〇侯」が普通だと言えます。
実際に楚は長江文明の流れを汲むとも言われており、そもそも黄河文明の流れを汲む中原の諸侯らとは文化が違うと考えられてきました。
しかし、金文では「楚公逆」の文字が見つかったりもしており、中華の国々と同様の文化があったのではないかと考えられる様になってきました。
それでも、楚の武王の時代に、称王を行い東周王朝を頂点とする世界からの離脱を図ったのでしょう。
尚、春秋左氏伝では楚の称王は自らを貶める行為と取られており、楚王ではなく楚子と呼ばれたりもしています。
鄾を滅ぼす
春秋左氏伝の魯の桓公の9年(紀元前703年)に、巴国が韓服を派遣し、楚に鄧と友好関係を結びたいと言ってきました。
巴では楚の武王の仲介により、鄧と友好関係を築きたいと考えたのでしょう。
楚の武王も道朔を派遣し、巴国の韓服と共に鄧に向かわせましたが、鄧の南にある鄾国は道朔と韓服を攻撃し殺害しました。
楚の武王は薳章を派遣し、鄧を責ますが、鄧は取り合わなかったわけです。
楚の武王は叔父の鬬廉を派遣し、鄾国を攻撃しますが、鄧では養甥と聃甥を鄾への援軍として派遣しています。
楚軍は巴軍を協力し、鄾を滅ぼしました。
屈瑕の成功と失態
春秋左氏伝によると、紀元前701年に屈瑕が貳と軫の二カ国と盟約を結ぼうとしました。
屈瑕は楚の武王の子です。
この時に鄖が随、絞、州、蓼に四カ国も連合し楚を攻めようとしており、屈瑕は弱気になりますが、鬬廉の言葉で鄖を攻撃し蒲騒で大勝しました。
貳と軫の二カ国とも盟約を結ぶ事に成功しています。
紀元前700年に屈瑕は絞も屈服させ、羅を攻撃しました。
闘伯比は屈瑕を危ぶみ増援部隊の派遣を楚の武王に進言しますが、楚の武王は却下しました。
しかし、楚の武王は夫人の鄧曼に説得され、遅れて頼の人を援軍として派遣しますが、間に合わず屈瑕は戦いに敗れ自害しています。
この辺りの話は楚の武王の鈍さと、鄧曼の賢さが強調された話となっています。
楚の武王の最後
紀元前690年に楚の武王は陣を整え再び随に侵攻しました。
史記にも春秋左氏伝にも紀元前700年から楚の武王の記述が存在せず、久しぶりの登場となります。
楚の武王は出陣前の斎戒を済ますと、夫人の鄧曼に会いますが「胸がどきどきする」と伝えました。
この時には、楚の武王の体に異変が起きていたのでしょう。
鄧曼は楚の武王に「命運が尽きた」事を伝えますが、楚の武王は出陣を強行しました。
鄧曼が予言した様に、楚の武王は陣中で亡くなっています。
樠の木の下で亡くなったと記録されています。
令尹の闘祁と莫敖の屈重は楚の武王の死を隠し、軍塁を築き随を攻める構えを見せました。
楚の武王は亡くなっていましたが、屈重は随との盟約を成功させる事になります。
楚軍は漢水を渡ると、楚の武王の死を公表しました。
楚の武王が亡くなると、楚の文王が後継者となります。
楚の武王は亡くなってしまいましたが、楚はまだまだ勢力を拡大させる事になり、楚の武王は王を称し楚の礎を築いたと言えそうです。
| 先代:蚡冒 | 武王 | 次代:文王 |