
| 名前 | 荘生(そうせい) |
| 生没年 | 不明 |
| コメント | 廉直さで楚王にも信用されていた |
荘生は史記の越王句践世家に登場する人物です。
越王句践世家には荘生と范蠡が仲が良かった話があり、タイミングは不明ですが、接点があった事が書かれています。
范蠡は陶に定住してからは、陶朱公と名乗っていましたが、次男が楚で殺人を犯し捕まってしまいました。
陶朱公は次男を救う為に末子を楚の荘生の元に派遣しようとしますが、長男が「自分にやらせて欲しい」と強く主張した事で、長男に任せる事になります。
長男に頼まれた荘生は楚王を動かし、大赦を出させますが、長男は荘生のプライドを傷つける様な事をしました。
結果として、荘生は楚王の元に再び参内すると、次男を処刑する様に取り計らっています。
荘生の住まい
史記では、この時の荘生の住まい描写があり、草などが生い茂った中をかき分け、漸く荘生の家の門まで辿り着いた話があります。
住居もみすぼらしかったと、史記には書かれています。
荘生は廉直さを評価され多くの人々が尊敬し、楚王でさえも一目置いている人物でしたが、質素な生活を好みあばら家に住んでいたのでしょう。
この辺りは朱家や原憲に通じるものがあると感じました。
清貧を好んだとみる事が出来ます。
荘生が動く
陶朱公の長男は荘生の前に進み出ると、父親の書簡を渡しました。
書簡には何が書かれていたのかは不明ですが、陶朱公は次男を助けて欲しいと荘生に頼み込んだのでしょう。
荘生は書簡を読むと、千金を受け取り長男には次の様に述べました。
※史記越王句践世家より
荘生「早く帰国する様にして欲しい。
くれぐれもここに滞在してはならない。
仮に其方の弟が出獄しても、理由を問うてはいけない」
荘生は長男に陶朱公がいる陶にさっさと帰る様に勧めたわけです。
この時には、荘生の頭の中では、陶朱公の次男を助ける為のプランが出来ていた事でしょう。
長男は荘生の前から立ち去りました。
荘生の言葉を信じない長男
長男は荘生の前から立ち去りはしましたが、言う事を聞かず楚に残りました。
荘生は貧しい格好をしていた様であり、長男からしてみれば「この人が弟を本当に助けられるのか」と疑念を持ってしまったのでしょう。
長男は自らも金を用意しており、楚の権勢がある人に贈ったとあります。
長男は弟を助けたい気持ちはありましたが、荘生では役に立たないと考え、楚の貴人に賄賂を贈り弟の赦免を働き掛けたと見る事が出来ます。
荘生の方では、陶朱公の長男は既に帰国したと考えていました。
さらに、千金は受け取りましたが、頼まれごとを引き受けた証として受け取っただけであり、陶朱公の次男が釈放された暁には返すつもりだったわけです。
荘生としてみれば、千金を受け取った事で、長男が陶に戻れば、陶朱公に報告し暗黙の了承により「この荘生が引き受けた」と陶朱公を安心させたかったというのもあるのでしょう。
荘生は妻にも「この千金は陶朱公のものであり、私が突然亡くなってしまったら、後日必ず返す様にして欲しい。この金に手を触れてはならない」と言い渡していました。
これを考えると、長男の行動は荘生の気持ちを踏みにじる行為だったとも言えるでしょう。
荘生が楚王を動かす
荘生は陶朱公の次男を救う為に、参内する事になります。
荘生の方でも楚王が空いている時間を調べ伺っており、楚王も荘生の話を聞く事になりました。
楚王としても、荘生は国中から尊敬されており、自らも信用していた事もあり、喜んだのではないでしょうか。
この時の楚王が誰なのかは書かれていませんが、呉が滅亡し范蠡が出奔したのが、紀元前473年以降であり、范蠡が陶朱公と名前を変え、陶に移り住んでから生まれた末子が大人になっている事から、それなりの時間が経っていたはずです。
鴟夷子皮を名乗っていた時代も含めて、少なくとも25年は経っていたのではないでしょうか。
これを考えると、在位期間が紀元前489年から紀元前432年までに当たる楚の恵王だった可能性が高いはずです。
范蠡が歴史上はじめて登場するのが、越王句践が呉王夫差に敗れた会稽の恥(紀元前494年)であり、年代的に見てもおかしくはないと感じました。
越王句践世家に登場する陶朱公と荘生の話は、陶朱公の最晩年の逸話でもあったのでしょう。
楚王に働きかける
荘生は楚王に謁見すると、次の様な会話となります。
※史記 越王句践世家より
荘生「ある星が星座に宿りました。これは楚に害がある予兆です」
楚王「どうすればよいのか」
荘生「徳によって害を除く事が出来ます:
楚王「分かった。儂は直ぐに実行する事に致す」
楚王は荘生の言葉を聞くと、三銭の府を封印したとあります。
三銭の府は黄金などが入っている場所であり、大赦が出た時に許される事を狙って犯罪を犯す者を防止する為の措置です。
荘生は楚王に大赦を出させ、陶朱公の次男を救おうとしたと言えるでしょう。
荘生としてみれば、長男に感謝されようとも思っておらず、楚王が大赦を出し救われたとし「自分は何もしていないから」と、陶朱公にお金を返すつもりだったとみる事が出来ます。
人の為の行動をしても、誇ろうともせず、自慢するでもないのが荘生であり、これが荘生のやり方だったのでしょう。
荘生の心が分からぬ長男
陶朱公の長男は楚に滞在を続けており、自分が賄賂を贈った貴人から、大赦が出る事を知りました。
楚の貴人は楚王が三銭の府を封印した事を知り、大赦を出す事を知ったわけです。
長男の方では楚王を動かしたのが荘生だとは知らず、渡した千金が惜しくなってきました。
長男は大赦が出れば弟は当然出獄するはずであり、千金はムダ金になったと考えたわけです。
再び長男は荘生の前に行くと、荘生は驚き次の様な会話がありました。
※史記 越王句践世家より
荘生「其方はまだ国に帰っていなかったのか」
長男「まだ国に帰ってはいませんでした。
ここに来たのは弟を助ける為でしたが、弟は廟議により自然と許される運びとなりました。
それで、先生に暇乞いをしたいと思って、ここに来たのです」
長男は「荘生は何もしていない」と考えて、何とか千金を取り返そうとして荘生の前に現れたと言えるでしょう。
荘生の方でも長男が金を取り返しに来たのだと悟り「其方は自分で部屋に入り、金を持ち帰るがいい」と答えました。
長男は金を取り返した事を喜び悦に入る事になりますが、荘生としてはプライドを傷つけられたはずです。
荘生は廉直を持って楚で知られていた人物であり、自分が信用されていなかったのが悔しくもあったのでしょう。
史記では燕の太子丹に「他言せぬ様に」と言われただけで「疑われた」と考えて自決してしまった田光の様な人物もおり、荘生と同じ匂いがします。
因みに、史記では「小僧っ子に欺かれたのが恥ずかしかった」とあります。
荘生の報い
荘生は再び楚王の元に参内しました。
荘生は楚王に次の様に述べる事になります。
荘生「私は星の事を述べて王には徳を修める様にと進言しました。
しかし、私が街に出ると道にいた人々は「陶の富豪である朱公の子が殺人を犯し、楚に捕らえられている。陶朱公は金持ちだから王の左右の者に賄賂を贈り、大赦を出させたのである。大赦は楚の民の為ではなく陶朱公の子の為である」と述べているのです。
荘生の言葉を聞いた楚王は激怒し「私は不徳の身ではあるが、陶朱公の為の大赦など出すはずもない」と述べ、直ぐに裁判を行い陶朱公の次男を処刑しました。
次男を処刑した楚王は翌日に大赦を出したわけです。
荘生と言えども、自分のプライドを傷つけた者を許す事は出来なかったのでしょう。
陶朱公の子は二男の遺骸を持ち陶に戻りました。
尚、陶朱公は長男が金を棄てる事が出来ないと考えており、遺骨を持って帰ってくる事を予期していた話で、物語は締めくくられています。
荘生と陶朱公は友人でもあり、この後に陶朱公が荘生に詫びを入れた可能性もあるのではないでしょうか。