
| 檇李の戦い | 紀元前496年 | |
| 勢力 | 呉 | 越 |
| 指揮官 | 闔閭 | 句践 |
| 兵力 | 不明 | 不明 |
| 損害 | 不明 | 不明 |
| 勝敗 | 敗北 | 勝利 |
檇李(すいり)の戦いは春秋時代の後期に、呉と越の間で起きた戦いです。
越王句践が自刃部隊を前に出し、呉軍が自刃する部隊を見て呆気に取られている隙に、越軍は呉を急襲し勝利した事になっています。
檇李の戦いの自刃部隊の話は史記と春秋左氏伝の両方に記録されていますが、自刃したのは春秋左氏伝では「罪人」となっており、史記では「決死の士」と書かれており、内容が若干食い違っています。
檇李の戦いは余りにも奇想天外な戦いでもあり、戦いの内容に関しては創作だったのではないか?とも考えられている状態です。
それでも、戦いは越が勝利し、呉王闔閭が負傷し亡くなったのは史実なのではないでしょうか。
尚、檇李の戦いは横山光輝先生の漫画『史記』でも描かれており、越の范蠡の策という事になっていました。
春秋左氏伝の檇李の戦い
檇李の戦いは春秋左氏伝に詳細が書かれいます。
魯の定公の14年(紀元前496年)に、呉が越を攻撃しました。
当時の呉は西では楚を壊滅状態にし、呉王闔閭は春秋五覇に数えられ、伍子胥や孫武が補佐し天下最強の呼び声も高かった時代となります。
檇李の戦いの兵力などは不明ですが、普通に考えれば兵力、物資共に呉が圧倒的に有利だった事でしょう。
呉王闔閭が自ら出陣すると、越王句践も迎撃し檇李の戦いが勃発したわけです。
越王句践は呉の軍に隙が無く、決死隊に二度呉軍に突撃を敢行させますが、呉は挑発に乗らず陣を崩そうともしませんでした。
ここで、越王句践は罪人を三列に並べて、首筋に剣を当て自刎の構えを見せると、次の様に述べさせています。
※春秋左氏伝より
罪人「呉・越の両君が出陣する際に、我らは軍令を犯し主君の前で不届きな行いをした。
刑罰は覚悟の上、ここで自刃する事に致す」
言い終わると、罪人たちは自らの首を刎ねました。
呉軍は罪人部隊に意識が向かいますが、この隙に越王句践は呉軍を急襲し大破する事になります。
この時に越の霊姑浮が闔閭に討ち掛かり、闔閭は靴を取られ足の指に怪我をしました。
闔閭は負傷し兵を引き、これにより檇李の戦いは越の勝利が決定しています。
呉王闔閭は、この時の傷が元で亡くなり、呉は夫差が後継者となりました。
檇李の戦いとは何だったのか
檇李の戦いですが、注目されるのが罪人による自決部隊ではないでしょうか。
兵士が次々に自刃し、その隙に越の句践の別動隊が、呉に横やりを入れて壊滅したという事になっています。
しかし、疑問点もあり、戦場にいて自刃部隊の声を呉の兵士が聞き取れる事が出来たのか?という事です。
戦陣では銅鑼がなったり、鬨の声をあげるなど騒々しさもあったと考えられ、檇李の戦いの自刃部隊の話は創作の匂いがします。
史記の呉世家や越王句践世家にも檇李の戦いでの自刃部隊の話があり、呉軍の前で、大声で呉への恩義を叫び自害した事になっています。
史記でも自刃部隊は登場しますが、史記では罪人ではなく決死の士となっています。
史記と春秋左氏伝の両方に、檇李の戦いでの自刃部隊の話が出てきますが、内容は若干違うと言えるでしょう。
落合敦思氏は春秋時代に罪人を部隊として管理する技術は無く、罪人を部隊として管理するのは戦国時代に入ってからだとしました。
落合氏は檇李の戦いの自刃部隊の話を荒唐無稽の物語とし、単なる説話だとしたわけです。
当時の呉や越は中原の国から遠く離れており、荒唐無稽な話が信じられてきたとしました。
確かに、呉や越を見ると中原や楚の国の様な「〇〇公」や「〇〇王」「〇〇侯」などの記述がなく、明らかに異質な文化に見えます。
こうした中で、中原の人々の想像した結果が、檇李の戦いの自刃部隊の話であったと考える事も出来ます。
檇李の戦いは謎多き戦いではありますが、呉に越が勝利し、戦いの後に呉王闔閭が亡くなった事は間違いないのでしょう。