室町時代

住吉合戦

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

住吉合戦(南北朝時代)1347年
勢力南朝北朝
指揮官楠木正行山名時氏、細川顕氏
兵力不明不明
損害不明不明
勝敗勝利敗北

住吉合戦は南朝の楠木正行と幕府軍の細川顕氏、山名時氏が戦っています。

藤井寺合戦で細川顕氏は楠木正行に敗れており、汚名返上の為に戦いだったとも言えるでしょう。

しかし、住吉合戦でも楠木正行の采配が冴えわたり、山名時氏を撃破すると一気に細川顕氏の軍を粉砕しました。

尚、住吉合戦では川に落ちて凍える幕府軍の武士たちを楠木正行が助けたとする逸話も残っています。

住吉合戦でも勝利した楠木正行に対して室町幕府は大きな危機感を抱き、高師直の出陣を決める事になります。

舞台は四条畷の戦いに続く事になります。

住吉合戦の始まり

細川顕氏は藤井寺の戦いでの雪辱の為に、山名時氏と共闘する事になります。

この時に楠木正行は東条を拠点としていました。

細川顕氏は四天王寺に本陣を置き、山名時氏は住吉社に本陣を置いています。

他にも、住吉浦の南に赤松貞範、阿部野の東西には土岐周済房、明智兵庫祐、佐々木四郎左衛門が布陣しました。

山名時氏は歴戦の猛者でもあり、楠木軍の先鋒隊を蹴散らすべく、住吉社の東に位置する瓜生野に地に向かう事になります。

楠木正行は軍を五手に分けて出撃させていました。

これにより住吉合戦が開戦となります。

楠木正行の戦法

楠木正行は四カ所に陣取る敵に対し、自軍が少ない事を考慮し、五つに分けて軍勢を一つに集合させました。

楠木正行は瓜生野に陣取る山名時氏の軍に集中攻撃を加える事を考えたわけです。

瓜生野は広大な野原であり楠木正行の軍と山名時氏の軍で激戦が繰り返されました。

楠木一族の和田賢秀が果敢に戦った事もあり、山名時氏自身が負傷し弟三人が討死する大損害を喫しています。

山名時氏は四天王寺に向かって退却を始め、楠木正行は阿部野に布陣する土岐周済房や佐々木四郎左衛門らを破りました。

四天王寺の細川顕氏の軍は楠木正行に押されまくり、この時点で住吉合戦の勝者は楠木正行に決まった様なものだったはずです。

渡辺橋

細川顕氏は淀川まで追い詰められる事になります。

敵に押されまくって川を背後に背負ったわけですから、背水の陣にもならず軍は混乱したままでした。

細川顕氏は淀川に掛かる渡辺橋を敵に奪われれば全滅すると考え、渡辺橋を死守しようとします。

しかし、細川顕氏の軍では戦おうとせず、渡辺橋に殺到し身動きが取れなくなってしまいました。

山名時氏も重傷を負いながらも何とか渡辺橋に到着しますが、状況を把握すると「自害する」と宣言しますが、家臣に止められました。

山名時氏は家臣に背負われ橋に殺到していた者達をなぎ倒し退却し、一命をとりとめた話があります。

細川顕氏は汚名挽回として挑んだ住吉合戦で、ほぼ戦わずに楠木正行と戦わずに敗走したと言えます。

住吉合戦の勝利で楠木正行は室町幕府から多いに警戒される存在となり、逆に細川顕氏は一時的に没落する事になります。

楠木正行と渡辺橋

太平記では渡辺橋から落ちた幕府軍の五百名を、楠木正行が助けたとする逸話が残っています。

住吉合戦が行われたのは、11月であり、淀川に水は極寒だったはずです。

楠木正行は淀川に落ちた五百名を救助し、衣服や薬を与えて看病し鎧や馬などの物資も与えて返しました。

楠木正行の恩義に感じた者達は、楠木正行に属す事を志願したとする話が残っています。

太平記では楠木正行の人情溢れる人格者として描いているわけです。

尚、淀川と渡辺橋は楠木正成が鎌倉幕府に属する六波羅探題の軍を破ったり、弟の楠木正儀も幕府軍を破っており、楠木一族と所縁が深い場所となっています。

史実の住吉合戦

太平記の記述を考えずに一時資料で住吉合戦の実情を考えると園太暦に記録が残っています。

洞院公賢の園太暦によると、次のような記述が残っています。

※戎光祥出版・南北朝武将列伝・北朝編より

同年11月26日、ついに正行と顕氏・時氏の軍勢が摂津の天王寺から堺にかけての一帯で衝突し合戦に及んだ。

結果として細川顕氏は戦いに殆ど参加せずに撤退し、山名時氏及び子の山名師義が負傷し、弟の山名義兼が戦死する事態となります。

山名氏にとってみれば史実でも、住吉合戦は鬼門だったと言えそうです。

住吉合戦と赤十字

住吉合戦の楠木正行の渡邊橋の話が欧米に紹介された事があります。

明治時代の日本は赤十字への加盟を目指していましたが、楠木正行の渡辺橋の逸話を話したら加入が認められたとあります。

楠木正行の渡辺橋の話が何処まで本当なのかは不明ですが、1940年には小楠公義戦之碑があり、現在でも称えられる話となっています。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細