殷王朝 西周

周公旦の聖人伝説の謎を考える

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宮下悠史

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名前周公旦(しゅうこうたん)
本名姫旦
時代殷→西周
一族父:周の文王 母:太姒 子:伯禽
兄弟:伯邑考、周の武王、管叔鮮、蔡叔度、曹叔振鐸
成叔武、霍叔処、康叔封、冉季載など
コメント聖人の代表格となる

周公旦は周の文王の子で武王の弟でもあります。

周の武王が殷を滅ぼして早い時期に亡くなりますが、周の成王の摂政となったのが周公旦だとされています。

記録によっては周公旦が天子になったとするものもあります。

周公旦は成周を造営したり、礼楽を定めた話があり聖人として名が通った人物です。

孔子は周公旦の夢を見なくなってしまったと嘆きました。

しかし、周公旦の史実で考えると、功績がよく分からず謎が多いのではないでしょうか。

今回は周公旦の史実や聖人として祀り上げられた経緯などを解説します。

周公旦が兄の武王を輔弼する

史記によると、周の文王の存命中から、周公旦は孝行であり兄弟たちにも並外れて慈しみ深かったと言います。

周公旦は後世で聖人化されていますが、この流れを史記は受け継いでいるわけです。

周の文王が亡くなると周の武王が立ちますが、周の武王の時代になると周公旦は政務をみる様になりました。

周の武王の時代は殷の打倒を図っている時代であり、周は殷打倒を掲げ盟津に諸侯を集めていますが、この時に周公旦は兄の武王を輔弼したと言います。

後に殷の紂王と牧野の戦いが勃発しますが、この時も周公旦は武王を補佐し牧誓をを作りました。

殷の紂王を殺害すると周公旦は大斧を持ち、召公奭が小斧を持ち周の武王を中心とし殷の社で祭器に生贄の血を塗り、殷の紂王の罪を天と殷の民に告げたと言います。

さらに、紂王により囚われていた箕子を自由の身としました。

殷は周により滅ぼされましたが、周公旦の活躍もあったわけです。

周公旦と魯

殷を滅ぼした事で、西周が始まりました。

周の武王は殷の紂王の子である武庚禄父を諸侯として封建し、管叔鮮・蔡叔度・霍叔処らに後見させ、殷の祭祀を絶やさぬ様にしました。

周の功臣たちは各地に封じられ、史記によると周公旦は曲阜に封じられたとあります。

ただし、周公旦は曲阜には行かず、子の伯禽が現地に向かい魯の国を建国しました。

近年の研究では周公旦は王畿内に領地を持った邦君となっており、魯の封じられたのは周公旦ではなく、子の伯禽の方だったと考えられています。

それでも、周公旦の子孫が代々に渡り魯公となったのは間違いないのでしょう。

尚、史記には魯に向かう伯禽に周公旦が戒めの言葉を述べた話が掲載されています。

周公旦の願い

周公旦は周の武王を輔弼し続けますが、西周王朝が興ってから2年が経過しても天下は安定しなかったとあります。

こうした中で周の武王は病に倒れました。

史記によると西周の重臣である太公望と召公奭が「不治の病」か占おうとしますが、周公旦は「先祖に心配を掛けてはならない」と述べ、自らを生贄にしようとしました。

周公旦は三つの祭壇を造営し、祭壇の前に北向きに立つと壁を持ち圭を手に持ち太王、王季、文王に、次の様に告げました。

※史記魯周公世家より

発(周の武王)は勤労の為に病となってしまいました。

三王(太王、王季、文王)の子孫の責めを天に負わば、旦(周公旦)を以て、王発の身代わりとする事を願います。

私、旦は万能、多才で鬼神に仕える事も出来ますが、王発は不器用であり鬼神に仕える事も出来ません。

しかし、王発は地上においては四方の民を敬服させ、よく治める事が出来るのです。

それ故に、武王の命を助け天命を堕とさない様にすれば、三王も永く宗廟に安んずる事が出来るでしょう。

周公旦は太王、王季、文王に対する告文を太史に読ませると、武王に代わり死のうとしました。

この後に三王について亀卜を占わせると「吉」と出たわけです。

周公はこれを喜び武王に報告すると、翌日に武王は元気になったと言います。

周公旦は告文を青銅の箱に密封し、管理する役人には他言しない様にと告げました。

周の武王は殷を滅ぼした後に比較的早い時期に病で亡くなった事は有名ですが、史記では一度は周公旦の願いにより回復した事になっています。

ただし、またすぐに病に倒れてしまったのか、周の武王は崩御しました。

周公旦の践祚

史記によると、周の武王が崩御すると、後継者の周の成王は幼く、周公旦は諸侯が西周王朝に背く事を怖れました。

周公旦は践祚し成王に代わり摂政として政治を行ったと言います。

践祚したという事は、周公旦が周王になった事を指します。

ただし、摂政でもあり代理の王という立場であった事を史記は示しているのでしょう。

後述しますが、周公旦が即位したというのは、一時資料では確認する事が出来ていません。

周公旦が疑惑と解く

史記によると周公旦の兄の管叔鮮や弟たちは、周公旦の態度を疑い周公旦が「周の成王に代わり王位を奪った」と宣伝したと言います。

周公旦は太公望と召公奭には、次の様に述べました。

※史記魯周公世家より

私が誤解されながらも、摂政をしているのは、諸侯が周に背き周の祭祀が絶える事を怖れた為である。

太王、王季、文王が天下を憂慮し苦労した事は久しく、今日にして王業が成就しようとしていたのである。

武王は早くに崩御され、周の成王はまだ幼少である。

よって、私が周の成王に代わり周を完成しようとしているのであり、摂政となったのはこの為だ。

周公旦は太公望と召公奭に告げると、周の成王にも詩を送っています。

三監の乱

史記によると、管叔鮮や蔡叔度は淮夷を率いて乱を起こしたと言います。

これが三監の乱です。

史記では管叔鮮や蔡叔度を周公旦が討伐した事になっています。

しかし、近年の研究では周の成王が自ら、三監の乱の鎮圧にあたったのではないかとされています。

さらに言えば、管叔鮮、蔡叔度、霍叔処らは武庚禄父の乱に加わってはおらず、武庚禄父の反乱により殺害されたのではないかと考えられる様になってきました。

詳細は三監の乱の記事をお読みください。

三監の乱が平定されると、周公旦の弟の康叔を衛に封建し、殷の紂王の庶兄である微子啓を宋に封じました。

後に周の成王の弟の唐叔虞も唐に封じられています。

成周を造営

魯周公世家によると、王は徒歩で豊に行き、召公奭に命じて洛陽を視察させたと言います。

同年に周公旦も洛陽に行き成周を築きました。

西周王朝が滅びた時に、東周が始まりますが、本拠地を洛陽にしており、史記の記述が正しければ、周公旦の時代に洛陽が築かれた事になります。

尚、成周が築かれたのは、殷の残存勢力に対処する為だったとも考えられています。

周公旦の爪

史記を見ると周の成王が子供の頃に病気になった事が書かれています。

この時に周公旦は「王は幼少であり、まだ何も知りません。神命を犯すとしたら私以外に考えられません」と自分の爪を切り黄河に沈めました。

そして、祈祷の策書を王の書庫に納めています。

周公旦の祈りの成果もあったのか、周の成王は病気から脱却しました。

周公旦の大政奉還

史記の魯周公世家によると、周の成王が成人した事で、周公旦は大政奉還を行った事になっています。

今までは南面して、諸侯を朝見させていましたが、周の成王に大政奉還を行った事で、北面し臣下としての振る舞いを行いました。

史記では周公旦が大政奉還を行っている事になったわけです。

周公旦が楚に出奔

史記に周公旦が讒言されに出奔した話があります。

周の成王は書庫の中の祈祷書を見つけると、涙を流し周公旦を呼び戻しました。

美談として扱われる話になっていますが、周公旦が讒言される事を見越して、書府に祈祷文を残しておいたとする見解もあります。

周公旦の戒め

周公旦は周に戻りますが、周の成王が淫蕩に耽り政治を疎かにする事を恐れました。

そこで、「多士」と「母逸」の文を作ったと言います。

周公旦は母逸の中で殷の大戊、武丁、祖甲がよく国を治めた理由を語っています。

それと同時に、殷の湯王から帝乙に至るまで祭祀を行い、殷の紂王が殷を荒廃させ周の文王が国を興隆させた理由を述べました。

周官を定める

周の成王は豊邑におり、天下は治りました。

しかし、周の官制が定まってはいませんでした。

周公旦は官制を制定し、定めました。

さらに、立政の文を作り民に喜ばれた話があります。

周公旦の最後

周公旦は豊にいましたが、病気となり最後を悟りました。

自分が助からないと判断した周公旦は「必ず自分を周に葬って欲しい。そして、成王の側から離れない事を示して欲しい」と告げています。

周公旦は亡くなりますが、周の成王は周公旦を高く評価しており、周公旦の遺言を辞退しました。

周の成王は周公旦を配下として扱わない為に、周公旦を畢に葬る事になります。

畢に葬ったのは、周公旦を周の文王に従わせた為です。

周公旦が起こした奇跡

周公旦が亡くなると、暴風雨が起こり稲が横になり大樹は倒れました。

周の人々は恐れ周公旦が過去に入れた箱を取り出しました。

そこには周公旦が書いた周の武王の快癒を願う祈祷文が出て来たわけです。

周の成王は祈祷文を読み涙を流し周公旦に感謝し「この嵐は天が周公の徳を明らかにする為に起こったのである。今こそ周公の霊をお迎えし天を祀る時だ」と悟りました。

周の成王が郊外に出て天を祀りました。

すると、雨が降り風が逆に吹く様になり、倒れていた稲が元に戻ったと言います。

さらに、この年は大豊作となりました。

周の成王は魯に命じて郊外で天を祀り、周の文王も祀るように命じました。

魯に天子の礼楽があるのは、周公旦の徳を褒賞する為だとされています。

周公旦と孔子

孔子が理想の人物として、周公旦を挙げていた事は有名でしょう。

周公旦の夢を見なくなったと、嘆いた話もあります。

尚、儒教が人々から支持されるに従い、孔子の偉大さと共に周公旦も極大解釈されて話が大きくなったとする見解もあります。

孔子の教えが人々に支持され、周公旦の聖人伝説も過大評価される様になった部分もあるのでしょう。

周公旦は王になっていない

周公旦に関係する青銅器として、小臣単シなどがあります。

小臣単シには、王が武庚の乱を平定した後に、成という地で軍を止め、小臣単が周公旦より錫を受け、それを記念して青銅器を作ったとされています。

周公旦と孟子

周公旦の功績

孟子は周公旦を次のように評価しました。

※孟子より

周公旦は兄の武王を輔弼し、殷の紂王の誅伐を行った。

さらに、殷に与する奄を討ち、三年掛けて滅ぼした。

殷の紂王の寵臣の飛廉を辺境の地に追い込み殺害し、五十の国を滅ぼしている。

虎、豹、犀、象などの猛獣を遠くに追い払い、天下の民は多いに喜んだ。

大いに明らかになるものかな、文王の計画は、大いに継承せるものかな、武王の功業は。

後の子孫を助け導き、私たちに何の欠陥もなく正道を行わせた。

孟子は管仲に対しては厳しい評価を下しましたが、周公旦に関しては、かなり好意的に見ている事が分かります。

三聖人

孟子は三聖人として禹、周公旦、孔子の三名を挙げています。

孟子は治水事業で成果を挙げた禹、夷狄を制圧し猛獣を駆逐し天下に平和をもたらした周公旦、春秋を作り乱臣、賊臣に自らを恥じいらせた孔子の三名を極めて高く評価したと言えるでしょう。

孟子は自らを禹、周公旦、孔子の三聖人の志を継承したいと述べています。

孟子が王にならなかった周公旦や孔子を三聖人に入れたのは、自らが聖人になるのに君主になる必要はないとしたかったからでしょう。

周公旦と荀子

荀子による周公旦の評価

荀子の周公旦について述べています。

周の武王が崩御し、子の成王が幼少であり、周公旦が自ら武王の跡を継いだのは、天下の人々の心を繋ぎ止め、天下の者たちが周から離反するのを恐れた為である。

周公旦は天子となり政治を行ったが、天下の人々は貪欲であると非難しなかった。

管叔を殺し殷の国家を滅ぼしたが、周公旦が道理に背いたとは言わなかった。

周公旦は71カ国を封建し周王朝と同族の姫姓の国が53を占めながら、天下の人々は不満を口にしなかった。

周公旦は周の成王に道義を教え文王と武王の道を継承させた上で、周公旦は天下と天子の位を成王に返上した。

周公旦が天下を成王に返しても、天下の人々は今まで通りに周に従っている。

周公旦も成王に臣下として仕えた。

荀子も周公旦を聖人として扱っており、天下をうまく治めたと高く評価しているわけです。

それと同時に注目すべき部分は、荀子が周公旦が天子になったと言い切っている所でしょう。

周公旦が天子になったとする始めは荀子だったとも考えられています。

それと同時に荀子が生きた戦国時代は、弱肉強食の時代でもあり「きちんと政治を行える者がトップに立たないと大変な事になる」と言いたかったのでしょう。

荀子の周公旦象の否定

ある人が孔子は「周公旦は徳高き者である。自身が尊貴になればなるほど恭倹になり、豊かになればなるほど益々慎ましくなり、敵を打ち破れば益々警備を厳重にした」と述べました。

荀子がこの言葉を聞くと「これは周公旦や孔子の言動ではない」と述べると、次の様につづけています。

※荀子より

武王が崩御した時に、成王が幼少だったので周公旦が後継者となり、天子となったのである。

諸侯は堂の下で小走りして臣下の礼をとった。

尊貴を極めた周公旦の何処が恭倹であったと言うのだろうか。

周公旦は誅伐が終われば鎧、兜、盾を廃し、刀、戟、矛、剣を収めて天下を平定し新しい楽を制定したのである。

周公旦は武王の勇気を讃えた「武象」を作り、殷の楽である「韶護」をやめさせた。

これにより天下の人々は感化され周に帰順したのである。

天下の境界が無くなり一家の様になった。

これ程に天下泰平を謳歌しながら、周公旦が警備を厳重にするなどあろうか。

荀子は孔子や周公旦に伝わっていた話を否定しました。

荀子は論語に示された話が全て孔子や周公旦のものではないと考えていたのでしょう。

さらに、荀子は礼楽により天下が統一されると考えていた事も分かるはずです。

荀子は大儒が万乗の大国を統治すれば、僅かな間で天下は平定され名声が世に輝くとも述べています。

周公旦が荀子の言う大儒を体現した者であり、百里の地を治める者であっても3年後には天下が一統されると述べています。

荀子は春申君に仕えた事でも有名ですが、諸子百家の中では法家に属する韓非子李斯の師匠としても有名です。

大儒の発想としては、韓非子や李斯の師匠には思えない様な発言とも言えるでしょう。

尚書大伝と周公旦

尚書大伝によると、周公旦は1年目で乱を救い、2年目に殷を破り、3年目で乱を起こしたエンを平定し、4年目で侯きん、衛きんを建て、5年目に成周を造営し、6年目に礼楽を制定し、7年目に政権を成王に返したという。

尚書大伝を見ると、周公旦は礼楽を制定出来たからこそ、周の成王に政治を返した事になっています。

荀子以降のものとしては、礼楽を制定する事の重要さを述べていると言えるでしょう。

周公旦と王莽

孟子は摂政となり、天下に平和をもたらしたのが周公旦だとしましたが、荀子では礼楽を定めたのが周公旦の功績になっています。

王莽は周公旦の話を史実だと認識し、政治利用した事で知られています。

尚書大伝には周公旦が礼楽を制定した後に、越裳国が白雉を献上した話があります。

周の成王は周公旦の徳を慕って夷狄がやってきたと考えました。

この話を王莽が利用しています。

王莽は益州に呼びかけ夷狄から白雉を献上させました。

王莽は大司馬及び録尚書事となっており礼楽も定め、平帝の代わりに政治を掌握し周公旦の姿に重ねさせています。

王莽は元太皇太后の詔を授かり、白雉を宗廟に供えさせました。

当時の群臣は漢の哀帝の時代の混乱した政治から王莽に期待しており、元太皇太后に劉邦や恵帝の丞相であった蕭何と同等の待遇を受けた霍光の故事を王莽に賜う様に上奏しています。

王莽は霍光の故事を辞退し、群臣らは周公の故事を願いました。

周公旦は周の国号である周公と呼ばれており、王莽は安漢公と呼ばれる事になります。

この様にして王莽は周公旦の故事を利用し簒奪を進めていったわけです。

王莽の時代には周公旦が天子として即位したのは、事実だという認識になっていたのでしょう。

周公旦伝説は解釈を変え時代と共に、話が飛躍していったとも言えるでしょう。

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