殷の紂王と言えば、夏の桀王と並ぶ程の暴君だったと言われています。
殷の紂王は妲己を寵愛し、酒池肉林などの贅沢三昧な事をし、さらに諫言した比干を殺害するなど暴君として史書に描かれています。
実際に、司馬遷が書いた史記でも、包絡の刑を行うなど殷の紂王の残虐ぶりが強調されています。
しかし、当時の資料である金文を見ると、殷の紂王は暴君ではなく精力的な君主だった事が分かっています。
もちろん、殷の紂王の代で殷は滅亡していますので名君とは言えないかも知れません。
しかし、金文では殷の紂王が衰えた殷を何とか立て直そうとした努力の形跡が見られるわけです。
今回は殷の紂王を史書と金文の両方から解説します。
史書における殷の紂王
史記などを始めとした史書における殷の紂王がどの様な人物だったのか解説します。
因みに、史書だと圧倒的な暴君として描かれています。
恵まれた能力
史記によれば、殷の紂王は帝乙の子だったと記述があります。
名前を「辛」と言い、諸侯は「紂」と言ったとされています。
この事から殷の紂王は帝辛と呼ばれる事もあるわけです。
尚、紂王の「紂」は「義を損ない、善を損なう事を紂と呼ぶ」とあります。
史記集解の記述ですが、これが真実であれば「紂」は良い言葉ではないでしょう。
紂王には兄に微子啓がいましたが、微子啓の母親の身分が賤しかった為に次ぐことが出来なかったとあります。
史記によれば殷の紂王は優れた身体能力を持ち、動きも素早く手で猛獣を倒す程の力があったと記録されています。
さらに、紂王は頭の回転が早く諫言であっても、逆に相手をやり込める程に弁論の技術も高かったとあります。
史書には、殷の紂王が才気活発な人物だった事が描かれています。
紂王自身も自分の能力が高い事を知っており、天下に自分に勝る者はいないと思っていた話もある程です。
酒池肉林の生活
殷の紂王は酒を愛し、溺れるほど飲み女と戯れ妲己を寵愛し、妲己の言う事であれば何でも聞いたとあります。
妲己自身も紂王を虜にする程の美貌を持ち、紂王の荒廃した生活を助長させています。
尚、妲己は有蘇氏の出身であり、有蘇氏は殷の紂王に反旗を翻すと、殷に討伐される事になり妲己を献上する事で許されたとあります。
殷の紂王は楽官の師涓に命じ淫歌の「北里の舞」などを作らせた話もあり、史書では真面目に政務を行う気も無かったかの様な記述すらあります。
さらに、殷の紂王は民衆には重税を掛け、鹿台を建造し多くの銭を蓄え、鉅橋の倉には粟を満たせた話もあるわけです。
殷の紂王はこれだけに留まらず、奇物を大量に集め沙丘に庭園を造り禽獣飛鳥などを放ち多くの者を集めて遊楽したとあります。
酒の池を作り林に肉を掛け、男女を裸にして、長夜の宴を開いたとあります。
酒の池や肉の林の事を酒池肉林と呼ばれる様になった事は有名です。
韓非子によれば、殷の紂王の叔父である箕子は象牙の箸を作った時に、次の様に述べた話が伝わっています。
「象牙の箸を作ったのであれば、普通の器では我慢出来ずに玉の器を作るであろう。玉の器では普通の食事では我慢出来ずに珍味を求める事になるであろう」
箕子は殷の紂王の贅沢が加速させる事に恐れを抱いた話があります。
韓非子は「箕子の憂い」として、殷の紂王による天下の乱れを予見した話になっています。
韓非子の話は箕子の聡明さを知るだけではなく、殷の紂王が徐々にエスカレートしていった事を示す内容となっているわけです。
臣下を処刑
殷の紂王の時代は、姫昌(後の周の文王)、九侯、鄂侯を三公にした話があります。
九侯には美人の女(むすめ)がいて、殷の紂王は九侯の娘を後宮に入れたが、九侯の女が淫を好まなかったので処刑したとあります。
さらに、九侯も処刑し、鄂侯が殷の紂王を強く諫めた為に処刑したとあります。
殷の紂王は、これに留まらず九侯と鄂侯を見てため息をついた姫昌を羑里に幽閉しました。
姫昌が幽閉されたのは崇侯虎が讒言した為とも言われています。
西伯昌は羑里に幽閉される事になりますが、殷の紂王は西伯昌の長子である伯邑考をも処刑し、伯邑考の肉を姫昌(西伯昌)に食べさせた話もある程です。
後に、姫昌配下の閎夭、太顚、散宜生らは殷の紂王に美人、奇物、財宝を届けた事で、周の文王は幽閉を解かれる事になります。
幽閉を解かれた姫昌は、洛水の西方の土地を周に献上し、炮烙の刑(後述)を取りやめる様に殷の紂王に願った話があります。
殷の紂王は姫昌の態度に満足し、弓矢斧鉞を与え西伯(西方の諸侯の頭)に任命しました。
姫昌は西伯昌と呼ばれる様になり、諸侯の討伐の権限まで与えられています。
佞臣を用いる
殷の紂王は佞臣を用いた事も史書に記録されています。
殷の紂王は人々から愛されていた賢人である、商容を宰相にしていましたが辞めさせています。
代わりに、おべっかが上手く利を好む費仲に政治を行わせましたが、殷の人々が親しまなかったと史記にあります。
さらに、紂王は悪来に政治を任せますが、悪来は讒言を好んだ事で、諸侯は殷に対しては反発すし殷は悪い方向に進むわけです。
余談ですが、悪来は怪力の持ち主でもあり、三国志演義で曹操が典韋の剛力ぶりに驚嘆し、「古の悪来の生まれ変わりだ。」と呼んだ話は有名です。
尚、悪来の子孫が秦に封じられて、戦国七雄の諸侯を倒し天下統一した秦の祖だとも言われています。
炮烙の刑
殷の紂王は、民衆の反発を知ると恐怖政治を行う様になった話があります。
炮烙の刑と呼ばれる、銅の柱に油を塗り、敷き詰めた炭の上を渡らせ、罪人に銅の柱の上を歩かせた話もあります。
罪人が滑って火の中に落ち苦しがる姿を見て、妲己と共に楽しんだと史書に記載されています。
炮烙の刑により、殷の紂王は民衆の弾圧を始めたとも言われているわけです。
先に述べた様に、炮烙の刑を周の文王は廃止を願い、諸侯から支持された話もあります。
殷が末期症状となる
殷の紂王は残虐性を発揮し、佞臣を重用し続けた為に殷は末期症状となります。
西伯昌(姫昌)が飢の国を討つと祖伊が周に対して危機感を抱き次の様に述べています
祖伊「殷は天命を終えようとしています。亀卜も凶ばかりです。先王が子孫の我等を助けなかったのではなく、王(紂王)の淫楽が天命を断ったのです。今や殷の民は殷を滅びるのを願っております。王は一体、どの様になさるおつもりですか。」
殷の紂王「其方は天命と言うが、儂が生まれたのも天命ではないか。」
この言葉を聞くと、祖伊は引き下がり「紂王は諫めてもダメだ」と述べた話があります。
殷の紂王の異母兄である微子啓は、何度も紂王を諫めるも聞き入れる事もなく国を去る事になり、紂王の叔父である比干は殷の紂王を強く諫言すると、殷の紂王は逆上し「聖人の心臓には7つの穴が開いていると言うが本当だろうか」と言い処刑した話もあります。
殷の紂王の残虐性を見た箕子は恐れ狂人を装い、奴隷に身を落とす事になります。しかし、殷の紂王は狂人となった箕子を許す事はせず捕らえた話があるほどです。
殷の太師と少師は、祭祀の楽器を持ち周に逃亡しています。
殷は紂王の暴政により、忠臣はいなくなり殷がボロボロになっていった様に史書には描かれています。
それに対し、周では軍師の太公望や召公奭、息子の姫発や周公旦など豊富な人材がいたわけです。
牧野の戦い
こうした中で、西伯昌は善行を治め諸侯の信頼を得る事になります。
過去に自分を讒言した崇侯虎も討つ事に成功しています。
ただし、西伯昌の代では周は殷を滅ぼす事は出来ませんでした。
それでも、史書には周の文王の時代に、既に天下の三分の二は周の支配下だった話も存在します。
西伯昌が亡くなると周の武王(姫発)が即位し、諸侯を率いて殷を討つ事にしたわけです。
1回目の遠征は盟津まで行くと800の諸侯が武王の前に集まったとも言われています。
諸侯らは「紂王を討たなければならない」と言いますが、周の武王は「まだ天命ではない」と言い引き上げています。
周の武王が引き上げると、紂王の暴政はさらにエスカレートした話もあります。
周の武王は二度目の遠征を行い、紀元前1046年に殷の紂王と牧野で戦う事になります。
牧野の戦いでは、殷の紂王は圧倒的な大軍ではありましたが、殷軍に戦意は無く武器を逆さまに持ち、周の武王に道を開ける事になりました。
これにより、殷の紂王は牧野の戦いで大敗したわけです。
殷の滅亡
牧野の戦いで大敗した殷の紂王は、鹿台に逃げ宝玉で着飾った服を着て火の中に飛び込み自殺したわけです。
これにより殷は滅びたと史書に伝わっています。
殷から天下の主が周に変わった事を、易姓革命とも殷周革命とも呼んでいます。
殷の紂王の子である武庚禄父は、周の成王の時代に周の武王の弟である管叔鮮と蔡叔度と共に三監の乱を引き起こす事になります。
三監の乱は周公旦に鎮圧された事で治まり、周の首脳部は殷の一族である微子啓を宋に封じる事にしました。
尚、紂王の叔父である箕子は、周の武王により朝鮮に封じられた話があり、箕子朝鮮を建国した話があります。
微子啓が封じられた宋は戦国時代まで生き延び斉の湣王に滅ぼされ、箕子朝鮮は楚漢戦争後に、項羽を破った劉邦が燕王に封じた盧綰配下の衛満により滅ぼされています。
殷の紂王の時代に殷は天下の主を周に譲り、子孫は前漢の時代に滅びたと言う事です。
これが史書における殷の紂王となり、衰えていた殷に暴君の紂王が現れて国を滅ぼした事になっています。
史実の殷の紂王
史実の殷の紂王ですが、非常に精力的な君主だった事が分かっています。
一次資料である金文からは、紂王の残虐性は感じられません。
史実の殷の紂王がどの様な人物だったのか紹介します。
文武丁の改革
金文によれば紂王は殷の28代殷王となります。
尚、甲骨文字によれば、史記で殷の紂王の父親となる帝乙の記述がありません。
紂王の先代は文武丁となっています。
文武丁の代では「方」と呼ばれる四方の外敵がいた事が明らかになっています。
代表的な「方」としては、西の羌方、北の危方、東の人方などがいました。
殷の文武帝は、軍事力の強化に迫られ狩猟日数の増加を行った話があります。
狩猟と言えば、遊びに思うかも知れませんが、都市国家である殷の時代の狩猟は軍事訓練の一つだった様です。
さらに、祭祀の回数を増やし王権の強化をした話もあります。
文武丁の富国強兵策は成功を納め中央集権化に成功し、各地の「方」を撃退した話が残っています。
金文によれば東の人方との戦いは激戦であったようですが、勝利を収め殷の力を諸侯に見せつける事に成功した様です。
ただし、各地の「方」の勢力は元々は、殷に服従していた勢力であり、殷の衰退を現わしていると指摘される場合もあります。
初期の殷の紂王の政治
文武丁から王位が紂王に引き継がれる事になります。
殷の紂王は文武丁の政策を引き継ぎ、狩猟を行い祭祀を活発にした話があります。
殷の紂王の酒池肉林の話は、殷の紂王が祭祀を活発に行った事で、多くの供物を捧げた事が原因ではないか?とする説が存在します。
尚、金文には妲己の名前は無く、「妲」という感じすら存在しません。
その為、妲己は現在では架空の人物だったのではないか?とも考えられています。
金文によれは殷の紂王は精力的な君主だった事は明らかです。
因みに、殷の紂王は生前から陵墓を造営していた話もあり、殷の紂王は即位した時には既に高齢だった説もあります。
ただし、殷の紂王の正確な年齢は分かってはいません。
生贄を止める
殷の時代では、人間が生贄にされる事が当たり前の時代でもありました。
殷では儀式の時や戦争で勝利すれば、生贄を神に捧げるのが当たり前の時代だったわけです。
殷の都であった殷墟からは、2万体を超える生贄が見つかったとも言われています。
しかし、甲骨文の記録によれば、殷の紂王は人間が生贄になるのを廃止した記録があります。
殷の紂王は炮烙の刑どころか、生贄を廃位し人間の命を大事にしたとも考えられています。
ただし、殷の紂王の時代は気候変動により、人口の減少が起こり生贄をする事で生産性の低下を危惧した説もあります。
殷の紂王が人道的な理由で、生贄を止めたのかは不明です。
中央集権化の失敗
殷の紂王はが勤勉な王で精力的な君主だった事は金文などからは明らかです。
ただし、最近の研究では中央集権化が失敗したのではないか?とも考えられています。
殷の時代は青銅器の時代であり領土国家ではなく都市国家でした。
殷の時代の戦争は、殷の支配下にあった都市と連携して戦いを行うのが普通です。
先代である文武丁の時代は、盟主である殷と諸侯の勢力は上手い具合に釣り合っていましたが、殷の紂王が中央集権化に積極的だった為にバランスが崩れたとも考えられています。
中央集権化が進めば、殷に権力は集まりますが、諸侯は権力が低下する事で不満を持ったわけです。
殷の支配下にあった諸侯は、殷に対して反旗を翻す事を考える様になったとも言われています。
尚、周の厲王も自ら軍隊を率いるなど精力的な君主ではありましたが、中央集権化に失敗したとも考えられます。
時代は違えど、殷の紂王と周の厲王は似た様な君主だったのかも知れません。
盂の反乱
殷の紂王の在位は、金文によれば16年位だった事が分かっています。
史書などでは殷の紂王の在位は30年だったとも伝わっていますが、実際には16年程度だったのでしょう。
紂王が即位してから8年目くらいの中期に盂(う)という都市が殷に対して反旗を翻した事が分かっています。
盂は殷の本拠地から近い場所にあり、殷では衝撃が走ったわけです。
殷の紂王は鎮圧する事に成功しますが、これ以降は諸侯の離反が多くなったのか求心力が低下して行く事になります。
盂の反乱から甲骨文字が減り祭祀の記録も無くなっていきます。
祭祀の激減は、殷の諸侯の反乱などで祭祀を行っている余裕が無くなったとも考えられているわけです。
祭祀が減った事は、殷の国力及び求心力の低下があり諸侯の離反が相次いだと考えられます。
他にも、盂の反乱の鎮圧に殷が手こずった事で、諸侯に殷の弱体化を見せつける結果になったとする説もあります。
殷に反旗を翻した勢力の受け皿になったのが、周の文王(姫昌)なのでしょう。
周には羌、召、畢などの諸侯が味方した事が分かっています。
因みに、羌には斉の始祖となる呂尚、召には燕の始祖となる召公奭などがいました。
盂の反乱をきっかけに殷は滅亡に向かいますが、殷の紂王の努力では転がり落ちる殷を救う事は出来なかったわけです。
紂王の最後
紂王の最後ですが、金文などではよく分かりません。
周側の記録もない様な状態であり、現時点では正確な所は不明と言えるでしょう。
牧野の戦いでも、周の方が諸侯の軍を率いて大軍だった可能性も十分にある様に思います。
尚、牧野に戦いに関しては甲骨文字でも記録があり、早朝から戦いが始り甲子の日に紂王が敗れた話があります。
甲子の日に敗れた話は、史記などの史書と一致しており、史書の内容も全てが間違っているわけでは無さそうです。
ただし、殷の紂王は周に敗れた事で、中華の盟主の座を明け渡した事は事実となるでしょう。
殷の滅亡と周王朝の成立は分からない事が多いと言えます。
尚、殷の紂王の死後に、紂王の子である武庚禄父の反乱があり、この時まではある程度の力は殷の遺民は持っていたのではないか?とも考えられています。
しかし、武庚が敗れた事で、殷の勢力は完全に力を失う事になります。
500年続いた殷王朝も完全に滅びたと言えるでしょう。
尚、周の副都となる成周(洛陽)には、東を治める為の軍が置かれる事となり殷の八師とも呼ばれています。
因みに、西周王朝末期に申侯や犬戎の攻撃により、周の幽王が殺され周の東遷が起こると、洛陽が周王朝の首都になっています。
ここにおいて春秋戦国時代が始まるわけです。
殷の紂王が悪く言われる理由
殷の紂王が悪く言われてしまう理由の一つとして、戦国時代に活躍した諸子百家が原因とも考えられています。
戦国時代には、諸子百家とも呼ばれる様々な自説を述べる人がいたわけです。
諸子百家の遊説家は、自説を強調するために善の王様と対になるかの様に、暗君を出して来る事になります。
諸子百家では勝者側の周の文王や武王、殷の湯王などは善玉の王様に例え、敗者側の夏の桀王や殷の紂王は暴君として強調する事になったわけです。
諸子百家の人々は自説が王に認められる事になれば、一気に富を得る事が出来た為に、インパクトがある話も必要だったのでしょう。
そうした戦国時代の時代背景もり、殷の紂王は悪逆非道な王様として描かれたと考えられています。
実際に、孔子の弟子である子貢は「殷の紂王の暴虐ぶりは、世間で言われている程の事はなかったであろう。」と述べています。
この言葉から分かる様に、春秋時代末期や戦国時代初期には、既に多くの紂王に関しての悪い噂が流れていたのでしょう。
さらに言えば、勝者側の周も大義名分の為に「殷の紂王が暴虐だった為に討伐した」と流言を行った可能性もあります。
西周王朝の三代目の王である周の康王の言葉で、「殷が滅んだ原因は、殷の諸侯や百官が酒に耽った事が原因である。」と金文に残っています。
周の三代目である康王の時代には、殷の事を悪く言っている事が分かるはずです。
周の康王の言葉などからも、殷の紂王による酒池肉林の話などが伝わったとも考えられています。
史実の殷の紂王は怠惰で暴虐な君主ではなく、真面目に政務を行う精力的な君主であったが時勢に合わずに滅んだのが史実だと言えそうです。
諸子百家は殷の紂王の時代から500年以上も後に書かれた書物であり、当時の状況を描かれた金文や甲骨文字の方が信憑性は高いと言えます。