
| 名前 | 周の平王 |
| 姓・諱 | 姫宜臼 |
| 在位 | 紀元前771ー紀元前720年 |
| 一族 | 父:幽王 母:申后 兄弟: 異母弟:伯服 |
| 子:洩父、王子狐、王子烈 | |
| コメント | 東周王朝の初代君主 |
周の平王は東周王朝の初代となります。
周の幽王が犬戎の攻撃により西周王朝が崩壊し、周の東遷が始り、周の平王が立ちました。
周の平王はすんなりと周の東遷を成功させ、東周王朝を開いたわけではなく、周の携王もおり、二王朝並立時代にもなったわけです。
周の携王は晋の文侯が討ちました。
これにより周は統一される事になりますが、国力は大幅に低下しており、諸侯の意思が強く反映される時代になったと言えるでしょう。
周の平王は在位51年もありますが、分かっている事が殆どありません。
史記では実績なども簡略に書かれていますし、春秋左氏伝は紀元前722年から始まり、周の平王は720年に死去している事で、記録が殆どない状態です。
太子を廃される
宜臼(周の平王)は周の幽王と申后の間に出来た子で、幽王の太子に指名されていました。
周の宣王が亡くなり、周の幽王が即位した時点で、太子に指名されたのではないでしょうか。
史記の周の幽王の三年に幽王が褒姒を寵愛する記述があり、少なくとも紀元前781年までは宜臼は太子だったと考えられます。
褒姒に伯服が生まれると、宜臼の立場が微妙になって行きます。
虢石父も伯服の支持へと回る事になります。
最終的に、周の幽王は宜臼の太子の位を剥奪し、褒姒の子である伯服に変えました。
宜臼は身の危険を感じたのか、母親の実家である申に亡命する事になります。
太子を代えた事で、周の太史の伯陽は「周は滅びるだろう」と予言しました。
しかし、最終的に宜臼が平王となり、周を存続させる事になります。
申に亡命
宜臼は申に亡命しましたが、当然ながら周の幽王は宜臼の身柄を要求しました。
しかし、舅の申侯は周の幽王の申し出を断り、周の幽王は申に出兵する事になります。
この時に、繒などの諸侯は申に味方しています。
周の幽王の申攻撃は結果的に失敗しました。
宜臼は胸をなでおろした事でしょう。
後に犬戎が西周王朝の本拠地である鎬京を攻撃し、周の幽王は逃亡しますが、殺害され西周王朝は滅亡しました。
周の東遷
史記では周の幽王が亡くなると、晋の文侯、鄭の武公、衛の武公、秦の襄公らが宜臼を洛陽に入れた事になっています。
ここにおいて、宜臼が周王(平王)として即位し、東周王朝の初代になった事が記録されています。
しかし、竹書紀年や他史料に照らし合わせてみると、周の幽王が亡くなった時に、周の平王、周の携王、鄭の桓公の三勢力に別れた事になっています。
鄭の桓公は、早い時期に亡くなってしまったのか、鄭の武公が後継者となりますが、武公は平王を支持しました。
これにより、周の平王を支持するグループと、周の携王を支持するグループに分かれる事になります。
こうした中で、晋の文侯が20年以上の歳月を掛けて、周の携王を討ち、周を統一しました。
周の平王は紀元前738年までに洛陽に入り、東周王朝の政務を行う様になったと考えられています。
これが周の東遷であり、名実ともに周の平王は周王になったと言えるでしょう。
周の東遷には30年以上の月日を擁し、申、魯、許、呂、繒の諸侯が平王を初期から支えていたと考えられています。
尚、史記では周の平王の時代に周室は衰え、諸侯の強いものは弱い者を併合し、斉、楚、晋、秦の諸国が初めて大きくなったとあります。
政は天子から出ず方伯から出ました。
史記の記述からも、周の平王は東周王朝の開祖とはなりましたが、西周王朝と比べると大幅に権力が低下している様子が分かるはずです。
周の平王に諸侯を抑えつけるだけの力はありませんでした。
周の平王と礼
春秋左氏伝によると、紀元前722年の秋七月に周の平王が魯の恵公と仲子への葬儀への贈り物をした記録があります。
紀元前721年に魯では恵公が亡くなっており、隠公が即位していました。
周の平王は葬儀への贈り物を宰咺に届けさせています。
春秋左氏伝では葬儀には遅すぎるし、子氏(仲子)はまだ亡くなってないとし、問題視しています。
春秋左氏伝には、詳細が書かれており天子が亡くなられると七か月で葬り、諸侯が集まるとしました。
諸侯が亡くなると五カ月で葬り、諸侯が集まり、大夫の場合は三カ月で葬り、同列の大夫たちが集まり、士の場合は翌月に葬り、国外の姻戚の者が集まるとしました。
春秋左氏伝では周の平王が魯の恵公の為に贈り物をするのが遅く、礼に合していないとしたわけです。
周の平王の方で何があったのかは不明ですが、魯の恵公が葬るのに間に合わなかった事だけは間違いないのでしょう。
周と鄭の人質交換
春秋左氏伝には周の平王が亡くなった紀元前720年に伝文が掲載されており、鄭の武公と荘公は周の平王の卿士(執政)に任命されていたとあります。
周の平王が虢に接近した事で、鄭の荘公は周王を恨んだとあります。
平王は「そんなつもりはない」と弁明し、周は王子狐を鄭への人質とし、鄭からは公子忽が周への人質になったと言います。
周王であっても、諸侯である鄭に対し、かなり気を遣っているのが分かるはずです。
それでも、公子忽は鄭の太子であり、鄭では国にとって国君の次に重要な人物を東周王朝への人質とした事になるのでしょう。
尚、周の平王が亡くなった後に、東周と鄭の関係は悪化し、鄭の祭仲が周の温の禾を刈り取る事件を起こす事になります。
周の平王の最後
史記によると、周の平王は在位51年で崩御したとあります。
紀元前720年に周の平王は崩御した事になるのでしょう。
周の平王は当時としては、圧倒的に長生きをした様であり、既に太子の洩父が亡くなっており、孫の林が後継者となりました。
林が周の桓王です。
春秋左氏伝にも魯の隠公の三年3月壬戊に、周の平王が崩御した記録があります。
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