周の宣王と言えば、周王朝の中興の祖というイメージがないでしょうか?
父親である周の厲王は暴虐であり追放され、対比されるかの様に、周の宣王は名君の様な描かれ方をする場合があります。
周の宣王は共和期が終わり周公や召公がサポートを行い、周初期の聖王である文王・武王の政治を復活させたイメージが強いです。
後半の周の宣王は堕落したようにも見えますが、治世の前半は名君として見られる事が多いです。
しかし、金文などで調べてみると周の宣王が中興の祖とは呼べないのでは?と思えてきます。
史記、金文などの記述と合わせて今回は、周の宣王について解説します。
史記の宣王は前半が名君、後半が暗君
史記における周の宣王は治世の前半は活発に活動している名君に見えます。
宣王は即位すると、文武成康の遺風を鑑みるような政治を行ったとされています。
周公や召公の協力の下で政治が安定すると、宣王の3年に西戎を討ち、4年に韓侯が来朝、5年には尹吉甫が玁狁を討ち太原まで行き、同年の8月には方叔が荊蛮を討っています。
さらに、宣王の6年には召伯虎が淮夷を征伐して、7年に申伯のために城を築いたとあります。
他にも、仲山甫が斉に城を築くなど、周の宣王は父親である厲王の様に自ら軍隊の指揮はしませんが、着実に成果を上げているように見えます。
史記を見る限りでは、宣王の治世の前半は順調に周辺の異民族などを征伐して実績があるわけです。
しかし、後期になると政治が乱れてきます
宣王の29年に千畝の籍田の礼を廃してからは、宣王自身が衰えたのか暗君になっていきます。
33年に太原の戎を討つわけですが、勝利することが出来ませんでした。
さらに、39年には姜戎と千畝で戦って敗れています。
43年になると軍事などでも活躍した杜伯を殺害しています。
このように治世前半は順調に周の威光を天下に示したが、後半は外征などを行っても全く勝てなくなってしまったわけです。
これが司馬遷が書いた史記から読み取れる周の宣王です。
金文での宣王は中興が行われたのか疑問
宣王の時代の事は金文にも書かれています。
虢季子白の南西や北伐が成功したような記述も書かれています。
宣王の前期は、王朝を運営する諸侯などにも危機感があったのか、周辺の異民族を積極的に討ち勢力を拡大している様に見えるのです。
ただし、冊命金文と呼ばれている周の宣王が命令した金文が圧倒的に少ないと言えます。
発見されている金文では宣王11年を最後に、幽王の頃も合わせれば40年ほど冊命金文がないのです。
これを考えると本当に周の宣王は中興の祖なのか?という疑問も湧いてきます。
何らかの事情により出さなかった可能性もありますが、周の宣王が異民族討伐を命令したわけではなく、諸侯が自分の利益の為に戎などを討った可能性もあるのではないでしょうか?
つまり、周の宣王に絶対的な権力があったわけではなく、諸侯の上に乗っている存在だと言う事も考えられます。
春秋戦国時代ほどは酷くはないでしょうが、西周王朝はかなり弱体化している様に思います。
新たなる金文がまた発掘されれば、見方も変わって来るかも知れませんが、現時点では、宣王が中興の祖というのは疑問があります。
さらに、諸侯同士が土地について揉め事を起こした話の金文もあり、周王室の権威は低下しているように思えてなりません。
宣王は名君なのか暗君なのか?
宣王は治世の前半は名君で、治世の後半はボケたのか暗君のイメージが強いです。
しかし、列女伝によると、宣王は即位した時から朝政を見ようとしませんでした。
そこで、姜后が諫めるとようやく朝政を見るようになったと言います。
国語や周語には、宣王は最初から暗君として描かれていたりします。
宣王の43年に無実の罪で杜伯を殺してしまい、46年に杜伯が現れて射殺されて死んでしまった事を考えれば暗君と呼べそうです。
しかし、幽王の代になると10年も経たずに西周王朝は崩壊してしまいます。
それを考えれば、宣王の頃の政治は中興の事業とは言えないのかも知れません。
結果的に、周の滅亡を加速させてしまった可能性もあります。
尚、通説では幽王は褒姒(ほうじ)を笑わせるために、狼煙を何でも上げて諸侯は呆れて敵が攻めて来ても集まらなかったと言います。
しかし、別の見方をすれば宣王の頃から王から命令が出される事が無くなり、幽王の最後には諸侯は「周を助けに行っても得られるものがない」と考えたのかも知れません。
そして、幽王は見殺しにされ、鎬京は荒れ果ててしまった可能性もあります。
周の幽王がやったとされる、オオカミ少年的な行為はなかったかも知れません。
諸侯が救援に行かなかった理由を作るために、勝手に物語を作ってしまった可能性があるでしょう。
尚、西周の滅亡は気候変動により、西方にいた犬戎が周の治める地域への移動が始り滅亡した説も近年では有力となっています。
周の宣王の時代から犬戎と西周王朝の間でトラブルはあった可能性もあります。
宣王の時代にあった変な出来事
宣王の時代ですが、伝説の時代という人がいます。
その原因ですが、下記のような記述があるからでしょう。
宣王の30年・兎が鎬京を舞った。32年・馬が人に化けた。37年・馬が狐に変化した。
これらの記述を見ると何が言いたいのかさっぱり分かりません。
何かの事件に関する説話なのでしょうか?
兎が鎬京に舞ったと言うのは、ウサギは耳が大きいですから、情報統制が行われたという事なのでしょうか?
現代では絶対にありえないような事が書かれているのが、この時代なわけです。
この謎を解くには容易ではないと思います。
新たなる文献や金文などで、これらが何を示しているのか明らかになる日を楽しみにしています。
ただし、兎が鎬京に舞ったとか、馬が人に化けたなどを書いた人は書きながら笑ってしまったのではないでしょうか?
それか、「この意味が分かるものはいまい!」とドヤ顔で書いたのかも知れませんが・・。
そういう意味不明な文献を想像するのも、この時代の楽しみと言えるかも知れません。
現代人と当時の西周の人では、感覚の違いもあるはずです。