程祁は正史三国志の楊戯伝に名前がある人物です。
程祁は季漢輔臣賛を書いた楊戯に高く評価された事で、名前が残ったとも言えます。
程祁は益州名士の中でも、かなりの評判の人物だったようですが、二十歳で亡くなってしまったと記載があります。
楊戯にとってみれば、程祁は優れた人物であり、惜しまれた死だったのでしょう。
尚、程祁の父親は程畿であり、兄弟として程郁がいます。
程祁の人格形成において、程畿の影響は大きかったと感じています。
今回は正史三国志や季漢輔臣賛で、名前が見られる程祁を解説します。
楊戯に認められる
先に述べた様に、程祁は楊戯伝に記載があります。
楊戯伝に下記の記述が存在します。
「楊戯は若い頃に、巴西郡の程祁・字は公弘、巴郡の楊汰・字は季儒、蜀郡の張表・字は伯達と共に評判の人物であった。
楊戯はいつも程祁の才能を高く評価し、第一の人物だと見ていたが、諸葛亮は楊戯の才能は十分にあると評価していた。」
楊戯伝の記述を見ると、楊戯は程祁の事を高く評価していた事が分かります。
さらに言えば、諸葛亮は楊戯を高く評価し、楊戯が程祁の事を高く評価したとなると、程祁は並みの人物ではなかったのでしょう。
ただし、別説としては当時の益州士人の中で、程祁の評価が筆頭であったが、諸葛亮は楊戯を一番評価していたとするものもあります。
しかし、正史三国志に程祁の具体的な活躍は記述されておらず、楊戯伝には「程祁と楊汰は早死にした」と述べられているだけです。
季漢輔臣賛の記述
楊戯は季漢輔臣賛を記述しており、程祁に関しては下記の様に述べています。
「公弘(程祁)は年は若かったが優れた精神を持っていた。
二十歳で夭折し、花が出なかった事が哀悼される。」
楊戯の季漢輔臣賛からは、程祁の死をかなり惜しんだ様子が見受けられます。
楊戯は程祁の精神力が優れていたと褒めているわけですが、程祁は高い志を持っていたという事なのかも知れません。
さらに言えば、逆境に挫けない強靭な精神を持ち合わせていた可能性もあるでしょう。
しかし、程祁に関しては先に述べた様に、具体的な功績が分からない事から、何を優れていたのかは不明です。
尚、季漢輔臣賛には、下記の記述も存在します。
程公弘の名は「祁」であり、程季然(程畿)の子である」
上記の記述から、程祁の父親が程畿である事は確実でしょう。
程祁の父親である程畿は忠義の人であり、劉璋と不和になった龐羲の反乱に加担せず諫めて思いとどまらせた逸話があります。
程畿の性格を考えると、程祁の優れた精神を持つ大きな要因にも感じました。
程祁の評価
程祁は楊戯が評価する位ですから、優れた人物だった事は間違いないでしょう。
ただし、何度も言う様に具体的な実績が分からない事から、評価しにくい人物でもあります。
程祁に関して述べておくと、三国志における名士層の人間だと感じます。
諸葛亮は名士層による政治を、目指していたと見える部分も多々あり、程祁の将来も期待していた様に感じました。
尚、能力が分からないが優秀だとされている人物には、馬良や馬謖で有名な馬氏の五常の残りの兄弟(名前すら不明)や、李邈の兄弟とされる李氏の三龍がいます。
歴史書では派手な戦いや外交が注目され、地味に実務をこなす能力があっても、注目されにくい場合があります。
同じ様な具合に、程祁も能力が高いと言う評判だけが残った様にも感じました。