その他 三国志

程畿(ていき)は激しい気性で忠節を全う

2022年2月2日

スポンサーリンク

名前程畿(ていき)
生没年生年不明ー222年(戦死)
主君劉璋→劉備
一族子:程郁程祁
年表214年 劉備に従事祭酒に任命される
 222年 夷陵の戦いで戦死
コメント忠義の人

程畿は劉璋や劉備に仕えた人物です。

劉備に仕えた時には従事祭酒に任命された記録もあります。

程畿の気性は激しく、忠節を全うした人物だとも言えます

程畿は自分の子供よりも義を大切にする人物であり、その点は賛否が分かれると感じました。

程畿の最後は季漢輔臣賛に書かれており、夷陵の戦いでの撤退戦で奮戦し、命を落としています。

尚、程畿の子には程郁と程祁がおり、程祁は季漢輔臣賛を書いた楊戯にも高く評価された人物です。

今回は忠節で義に殉じたともいえる程畿を解説します。

巴西出身の人物

程畿は季漢輔臣賛に記録があり、巴西郡閬中県の人だとあります。

程畿は劉璋が益州を治めている時代の人物であり、漢昌の長になったと記述があります。

漢昌には獰猛な賓族が住んでいたと記録されています。

漢の劉邦項羽に漢中王に任命され、後に関中を平定しますが、賓族の力を利用して関中を支配下にしたとあるわけです。

これを考えると、賓族は味方にすれば強力な戦力になるが、敵に回せば手ごわい存在だったのでしょう。

こうした統治の難しい地の役人に程畿はなったわけです。

程畿がどの様に賓族と接したのかは不明ですが、程畿でなければ治めるのが難しい地域でもあった様に感じます。

龐羲を諫める

龐羲は劉璋の子である劉循劉闡を救うなど、功績があった臣下です。

しかし、張魯に対抗する為に、兵を多く集めた事で、劉璋に疑われてしまい謀反を起こそうと画策しました。

この時に、程畿の子の一人である程郁が、龐羲の部下としており、龐羲は程郁を使い程畿を味方になる様に説得の使者として派遣しています。

程畿は程郁に会うと、主君であり恩義がある劉璋を裏切る事は出来ないし、程郁も主君である龐羲を裏切ってはならないと戒めた話があります。

程畿は主君に絶対の忠誠を誓う者であり、主君に対して弓を向ける様な事は出来ないと述べたわけです。

龐羲は程郁の言葉を聞きますが、謀反が成功する為には、程畿の協力が必要だと考えたのか、別の者を程畿の元に派遣しました。

龐羲は程畿に「儂に味方せねば一族に災いが及ぶ」と使者に言わせています。

程畿は次の様に述べました。

程畿「戦国時代の初めに魏の将軍楽羊は、中山を攻撃しました。

この時に、中山には楽羊の子がおり、中山の君主は楽羊の子を殺害し、羹として楽羊に届けています。

楽羊は羹を食べましたが、決して楽羊に愛情が無かったわけではありません。

大義が楽羊をそうさせたのです。

もし私の前に息子たちの羹が来たとしても、飲み干すだけです。」

程畿は龐羲の使者に対して「息子が殺されても味方する事はない」ときっぱりと断りを入れたわけです。

龐羲も使者の言葉を聞き、程畿が自分に味方する事は絶対にないと悟りました。

龐羲は程畿が味方しないのであれば、反乱は上手く行かないと判断したのか、劉璋に詫びを入れに行く事にしました。

劉璋は龐羲を許した話があります。

尚、程畿の口から出た楽羊は戦国時代の初期に魏の文侯に仕えた武将であり、子孫には戦国時代を代表する名将である楽毅がいます。

劉備に仕える

程畿は劉備に仕えた記録があります。

ただし、劉備が劉璋から蜀を奪う時に、程畿がどの様な行動をしたのかは不明です。

しかし、程畿の性格を考えると、行動を予想する事が出来ると感じています。

個人的な意見なのですが、劉備の入蜀時に、程畿は劉璋の為に奮戦した様に思いました。

張任厳顔王累、黄権などと同様に、劉璋に対する忠義で城を守ったのではないでしょうか。

それでも、馬超が劉備に帰参し劉璋が戦意を失くし、降伏するタイミングで程畿も降伏し劉備に仕える事になったように感じています。

蜀の滅亡時に侵攻してきた呉軍相手に奮戦し、劉禅が降伏した後に西晋に仕える事になったのと似た様な感じだと思った次第です。

程畿の最後

季漢輔臣賛に程畿の最後に関する記述が存在します。

劉備は定軍山の戦いで勝利し、曹操から漢中を奪うと漢中王に即位しました。

この後に、関羽が荊州を孫権に奪われ、蜀は荊州の全土を消失しています。

劉備は皇帝となり、呉に攻め入りますが、夷陵の戦いで陸遜に大敗を喫しました。

夷陵の戦いに程畿も蜀軍として参加しており、程畿も逃げねばならぬ状態となったわけです。

この時に、程畿の部下が次の様に進言しています。

部下「追手がすぐ近くまで来ております。船の網をほどき船を軽くして逃げれば、撤退出来るに違いありません。」

部下は船を軽くし、急いで逃げる様に程畿に進言したわけです。

しかし、程畿は次の様に答えました。

程畿「儂は軍にあっては一度も敵から逃げた事がない。

ましてや現在は天子(劉備)に従っているのだ。

危険に構っていられようか。」

程畿は船を軽くして逃げるよりも戦う事を選択したわけです。

船を軽くしなかった事で、程畿の船は呉軍に追いつかれてしまいました。

程畿は自ら武器を手に取り戦い、呉軍の中には転覆する船もいた話があります。

しかし、呉の大軍が到着した事で、程畿の船に呉軍の攻撃が集中し、最後は戦死してしまいました。

程畿の最後は、夷陵の戦いでの戦死となっています。

程畿の評価

程畿は忠義の人だと言えるでしょう。

程畿の思想の第一は忠義だったと感じました。

自分の子よりも忠義を取る人物であり、三国志で言えば思想は列女と呼ばれた王異に近いと感じています。

王異は馬超との戦いで奮戦した人物ですが、自分の子供よりも節義を取った話があります。

自分の子よりも義を取る姿は、当時の一部の人の思想を現わしている様に思います。

さらに、最後が示している様に、程畿は武勇にも秀でていたのでしょう。

程畿の能力値(コーエーテクモゲームス)

三国志14統率68武力60知力76政治72魅力72

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

スポンサーリンク