春秋戦国時代 西周

鄭の桓公は第三勢力を形成していた

2024年5月19日

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宮下悠史

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名前鄭の桓公(姫友)
生没年生年不明ー紀元前760年頃
史記では771年に没
時代西周王朝ー周の東遷期
一族父:周の厲王 兄:宣王 子:鄭の武公 孫:荘公、共叔段
主君周の宣王ー幽王ー独立勢力??
コメント鄭の礎を築いた君主

鄭の桓公は史記や国語などに名前があり、周の太史である伯陽との逸話でも有名です。

鄭の桓公の本名は姫友となります。

史記によれば鄭の桓公は周の厲王の末子で、周の宣王とは腹違いの弟だとあります。

周の厲王は国人の暴動もあり、鎬京を追われましたが、厲王が西周王朝の政務を執っている時代に鄭の桓公が生まれたのか、共和の時代に生まれたのかは不明です。

厲王の末子で厲王の逃亡先が鄭という事も考えれば、共和の時代に鄭の桓公が誕生したとしてもおかしくはないでしょう。

周の厲王と鄭の女性との間に生まれたのが鄭の桓公だったのかも知れません。

鄭の桓公は周の幽王の時代に司徒となり、人望を集めますが、王室の混乱を目の当たりにし伯陽の進言により、民や財産を東虢などの10国に預けました。

史記では鄭の桓公は周の幽王に殉じ犬戎に殺害された忠義の臣としての記録があります。

しかし、最近の研究では鄭の桓公は周の幽王の死後も生き続け、周の平王、周の携王と並ぶ第三の勢力として鼎立していたのではないかとも考えられています。

今回は史記だけに頼らず国語などの記述も含めて解説します。

鄭に封じられる

鄭の桓公は西周時代末期の生まれであり、王室が多難な時期だった頃の人物だとも言えるでしょう。

周の宣王の前期に中興が起きたとする考えもありますが、宣王の後期には勢いを失くしていました。

史記の鄭世家によれば、鄭の桓公友は周の宣王の23年に、鄭に封じられたとあります。

ここでいう鄭は春秋戦国時代に鄭があった場所ではなく、陝西・華県の北にある邑だと考えられています。

鄭の桓公は西周王朝の直轄地である王畿内にある鄭に封じられた邦君になったという事です。

史記には鄭の桓公が封じられて23年が経つと「領民は安堵し公を敬愛した」とあります。

鄭の桓公は時間を掛けて民を慰撫して行ったのでしょう。

司徒となる

鄭の桓公は鄭をよく治めましたが、西周王朝の本家の方では混乱が見られました。

周の幽王の時代になっても周は衰えたままであり、ここで周の幽王は褒姒という美女を手に入れ寵愛する事になります。

褒姒は伯服を生み虢石父に接近しました。

幽王には申后と太子の宜臼がいましたが廃立し、褒姒を皇后とし伯服を太子に変えてしまいました。

宜臼は母親の申后の実家である申侯を頼り、宜臼と申侯を中心としたグループが形成され、周は分裂していきます。

こうした混乱の時期である紀元前774年に周の幽王は鄭の桓公を司徒とし、西周王朝の高官としたわけです。

卿の虢石父が評判が悪い人物だと伝わっており、人望がある鄭の桓公を司徒としたのは、周にとっては幸いだった事でしょう。

ただし、西周王朝は末期であり、鄭の桓公に優れた能力があったとしても「時すでに遅し」だったと考える事も出来ます。

鄭の桓公にとってみれば、西周王朝が最も苦難の時期に司徒になってしまったとも言えるはずです。

民を預ける

鄭の桓公は司徒となり、西周王朝の政治とも深く関わりますが、申との対立もあり王朝の滅亡を予感していたのでしょう。

史記や国語によれば鄭の桓公は太史の伯陽に相談し、民を洛水の東、黄河の南の地に遷しました。

鄭の桓公は財産や民を黄河の南に割拠する東虢に預ける事にしたわけです。

東虢、鄶や近辺の諸侯らは鄭の桓公に10邑を献じて来ました。

東虢や鄶の君主らは西周王朝の鄭の桓公の財産を預けられた事に何らかのメリットを感じ邑を献じて来たのでしょう。

西周王朝の崩壊

紀元前771年に周の幽王は申侯や犬戎らに敗れて亡くなりました。

伯服も殺害され褒姒は捕虜となります。

周の幽王が亡くなり西周王朝が崩壊した事を知ると、東虢の君主は鄭の桓公が預けていた財産を奪いました。

史記では鄭の桓公は周の幽王と共に亡くなった事になっています。

司馬遷は国語の鄭語を元に史記を書いたと考えられており、鄭語には下記の記述が存在します。

※国語 鄭語より

幽王のは8年に(鄭の桓公が)司徒となり、9年に王室が乱れ、11年にして斃れる。

司馬遷は「11年にして斃れる」の部分は本来は周の幽王の死を意味する言葉でしたが、司馬遷は鄭の桓公が亡くなったと考えて記述したとされています。

韓非子に鄭の桓公に関する逸話があり、韓非子では鄭の桓公は亡くなっておらず、実際に鄭の桓公は幽王の死後も生き抜いたと考えられているわけです。

吉本道雅氏も指摘している様に、個人的には鄭の桓公は周の幽王に殉じたわけではないと考えています。

諸侯国「鄭」の誕生

東虢は鄭の桓公の財産を奪ってしまいますが、この前後で鄭の桓公は成周(洛陽)入りしたのでしょう。

洛陽は西周王朝の副都であり、土地は狭くても商業が盛んな地域でした。

鄭の桓公は西周王朝の司徒でもあり、人望があった事で速やかに洛陽の軍隊を手に入れる事が出来たのでしょう。

鄭の桓公は財産を奪われた事を理由に、成周の軍隊を率いて東虢や鄶を討つ事になります。

ただし、東虢や鄶も当時としては大きな国であり、鄭の桓公も慎重に事を進めたのか策も織り交ぜて東虢や鄶を討ち周辺の10国ほどを支配下に収めました。

この時に鄭は鄶・東虢・鄔・弊・補・丹・依・畴・歴・莘を制圧したわけです。

鄭の桓公は洛陽の東、黄河の南の地に鄭という諸侯国を誕生させた事になります。

鄭は元は王畿内にある邦国でしたが、この時に諸侯国として生まれ変わったと言えるでしょう。

鄭は新鄭を首都にしました。

三者鼎立

史記を読むと申にいる宜臼の元に秦の襄公や衛の武公鄭の武公晋の文侯らが集結し、宜臼が洛陽に入り周の平王となり、呆気なく周の東遷は完了したかの様に見えます。

しかし、実際には宜臼が周の平王として洛陽に立つまでには、30年以上もの歳月があったと考えられています。

西周王朝が崩壊すると、虢公翰が王子余臣を推戴し周の携王としました。

申には申侯が擁する周の平王の勢力もいたわけです。

さらには、第三の勢力として鄭の桓公の勢力がいました。

鄭の桓公は周の厲王の子でもあり、周王室の後継者となる正統性が担保されていたとも考えられています。

周は平王、携王、鄭の桓公で三者鼎立状態となったわけです。

この後に鄭の桓公がどの様になったのかはイマイチ不明ですが、紀元前760年頃までには亡くなっていたと考えられています。

鄭の桓公が亡くなると、鄭の武公が後継者となりました。

鄭の桓公は諸侯国鄭を誕生させた偉大な君主だったと言えるでしょう。

鄭の桓公は本拠地を新鄭に定めますが、春秋時代にに挟まれながらも、しぶとく生き残る事になります。

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