春秋戦国時代

鄭の昭公は2度国君となるも呆気なく亡くなった

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宮下悠史

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名前鄭の昭公
姓・諱姫忽
時代春秋戦国時代
生没年生年不明ー紀元前695年
在位①紀元前701年 ②紀元前696年ー紀元前695年
一族父:荘公 母:鄧曼 兄弟:子亹、鄭子、厲公、公子語
コメント2度国君になるも短期間で終わった。

鄭の昭公は春秋時代の鄭の君主です。

太子時代から活躍が見られ、東周王朝への人質となったり、斉が北戎に攻められた時は、援軍の将として派遣されました。

鄭の昭公は太子時代に斉との婚姻を「つり合いが取れない」と述べ断った事でも有名ではないでしょうか。

鄭の昭公は二度国君となりますが、どちらも短期間で終わっています。

鄭の荘公の時代は、かなり目立っていた鄭でしたが、昭公の時代頃から、目立たない存在となっていき中華の中心からは外れた存在になって行きました。

東周王朝への人質

春秋左氏伝の紀元前720年の条に、周の平王鄭の武公荘公を卿士に任命していましたが、周の平王は虢国にも接近した話があります。

鄭の荘公と周の平王の関係が悪化し、人質交換をするまでに至りました。

この時に、東周王朝の王子狐が鄭への人質となり、鄭の公子忽(鄭の昭公)が東周王朝への人質となります。

これが文献上の鄭の昭公の初見ではないでしょうか。

公子忽がどのタイミングで鄭に戻って来たのかは不明ですが、紀元前706年に鄭の軍を率いて、斉の援軍に行っており、この頃までには鄭に戻っていたのでしょう。

太子忽の辞退

春秋左氏伝によると、斉の僖公は娘の文姜を鄭の太子忽に嫁がせようとしました。

太子忽は辞退しますが、理由を聞かれると「人にはそれぞれ釣りあった相手がいる。斉は大国過ぎて私には釣りあわない。詩にも『自ら福の大きを求む』とあり、自分が肝心であり、大国と婚姻を結んだからと言って何になるのだろうか」と応えたと言います。

春秋左氏伝の君子は太子忽の言葉を聞き「太子忽は自分の事をよく考えている」と評しました。

太子忽の言葉は春秋左氏伝の君子が好みそうな言葉ではありますが、見方を変えればチャンスを逃したと言えそうです。

尚、斉の僖公が太子忽に嫁がせようとした文姜は、魯の桓公に嫁ぎました。

文姜は兄妹である斉の襄公と密通しており、後に魯の桓公は殺害される事になります。

これを考えれば、文姜を妻として迎えなくて、太子忽は正解だったのかも知れません。

太子忽と高渠弥

史記や春秋左氏伝に、鄭の荘公が高渠弥を卿に任命しようとし、太子忽が強く反対した話が掲載されています。

太子忽は強く反対するも、鄭の荘公は高渠弥も卿にしてしまいました。

この事が原因で、太子忽(鄭の昭公)と高渠弥の間に隙間風が吹く事になります。

尚、太子忽が高渠弥の卿就任に反対した話は、春秋左氏伝にも史記にも記載されていますが、何年の事なのかは不明です。

しかし、この事が後年に不幸を呼ぶ事になります。

斉への救援

獅子奮迅の活躍

紀元前706年に北戎が斉に侵攻し、斉の僖公は鄭に援軍要請をしました。

鄭の荘公は太子忽に軍を率いさせ、斉への援軍としています。

ここで鄭の荘公は獅子奮迅の活躍を見せたのか、戎軍を大破した記録が春秋左氏伝にあります。

鄭の軍は戎の将である大良と少良及び、甲士の首三百を獲得し、これを斉に献じました。

太子忽が激怒

斉を助けた諸侯の大夫たちに、斉では食料を提供し、魯に分配を命じました。

魯では鄭への食糧を後回しにしています。

食糧を後回しにされた事で、太子忽は「自分こそが軍功があるはずだ」と激怒しました。

太子忽は魯を恨み鄭と魯の関係が悪化する事になります。

尚、食料を後回しにされた事で、鄭の兵士達も怒り、太子忽も激怒せねば、示しがつかない状態になっていたのかも知れません。

ただし、魯の方では軍功ではなく、周王室の爵位の序列により、食料の順番を決めた話があり、魯のやり方は間違ってはいないとする評価もあります。

ただし、この事件が後には戦争にまで発展し、郎の戦いが勃発しました。

二度目の辞退

太子忽は戎の軍を破ると、斉の僖公は再び別の公女を嫁がせようとしました。

しかし、太子忽はまたもや辞退しています。

太子忽は辞退した理由を次の様に述べました。

※春秋左氏伝(岩波文庫)より

先に斉との関係がなかった際でも、私はお受けしなかった。

今や君命を受けて斉の危急に駆け付けたのに、妻を貰って帰国したら、出兵を利用して結婚した事になる。

これでは、民が自分をどの様に評価するのであろうか。

太子忽は再び斉との婚姻を辞退したわけです。

ただし、鄭の祭仲は太子忽が鄭公の位に就けない事を危惧し、弟に公子突と子亹がいる事を述べ諫めました。

祭仲としては、大国である斉の女生と太子忽が婚姻関係を結び、大国の支援で国を安定させたかったのでしょう。

それでも、太子忽は辞退を翻す事はありませんでした。

尚、後年の事を考えれば、祭仲の言葉が正しかった事が分かります。

鄭の昭公の即位と亡命

紀元前701年に父親の鄭の荘公が亡くなりました。

この時に、祭仲が公子忽を立てた事で、太子忽は鄭の昭公として即位する事になります。

太子忽の母親の鄧曼は、祭仲が鄭の荘公に斡旋して嫁がせた経緯もあり、鄭の昭公が鄭公となるのが妥当と考えたのでしょう。

しかし、ここで横やりが入り宋の荘公が祭仲を呼び寄せ、脅迫し公子突を鄭の君主とする様に告げました。

祭仲は宋の荘公の言葉に逆らえず、公子突と共に帰国し、公子突が鄭の厲公として立つ事になります。

鄭の昭公は身の危険を感じ、衛に亡命しました。

宋の荘公が鄭の厲公を立てたわけであり、鄭と宋の関係は良好になるかと思いきや、宋の荘公の要求が強すぎて逆に険悪になっています。

鄭の昭公の復帰

鄭の朝廷は祭仲が仕切っていたのか、鄭の厲公はお飾りの君主の如くどうする事も出来ませんでした。

鄭の厲公は祭仲を暗殺しようとしますが、事は露見し亡命を余儀なくされています。

祭仲は鄭の厲公が亡命した事で、鄭の昭公を立てました。

これにより、鄭の昭公は君主の座に復帰出来たと言えます。

ただし、鄭の昭公は過去に魯と揉め事を起こしており、鄭と魯の関係は悪化しました。

尚、鄭が混乱した隙に、許は再興を遂げています。

鄭の昭公の最後

鄭の昭公の2年(紀元前695年)に事件は起きました。

鄭の昭公が太子だった頃に、高渠弥が卿になるのに反対した事がありました。

高渠弥は鄭の昭公が国君になったら、殺されるのではないかと心配していたわけです。

春秋左氏伝によると、十月辛卯の日に辛卯は鄭の昭公を殺害したとあります。

史記では鄭の昭公と高渠弥が狩りに出て、野原で射殺した事になっています。

春秋左氏伝では高渠弥が子亹を立てたかの様な記述がありますが、史記では高渠弥が鄭の厲公を立てようとするも、祭仲が反対し昭公の弟の子亹が後継者となりました。

尚、春秋左氏伝には鄭の昭公について「鄭の昭公は憎むべき人物を知っていた」と評しています。

鄭の昭公を誅殺した高渠弥について、魯の公子達は「仕返しが行き過ぎている」とし、その死を予言しています。

予言は的中し、高渠弥は主君の子亹もろとも斉の襄公により殺害されました。

鄭の昭王の公位継承は下記の通りです。

荘公昭公→厲公→昭公→子亹

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