
| 名前 | ティグラト・ピレセル1世 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前1077年 |
| 国 | アッシリア |
| コメント | アッシリアを強国にしたが晩年は飢饉に悩まされた |
ティグラト・ピレセル1世は中アッシリア時代のアッシリア王です。
トゥクルティ・ニヌルタ1世の死後にアッシリアは衰えますが、再び興隆させたのがティグラト・ピレセル1世です。
アッシリアを再び興隆させ、アラム人の撃退の為に何度も遠征を行い、イシン第二王朝とも戦うなど精力的に動いています。
ただし、治世の晩年には大飢饉が発生しており、記録が激減しアッシリアもメソポタミア北部を支配する勢力にまで縮小しました。
英雄的な王であっても、大飢饉には勝てないという事なのかも知れません。
尚、ティグラト・ピレセル1世の「八角柱碑文」があり、楔形文字が解読される事になります。
信仰と権威の象徴:アヌ・アダド神殿の建立
ティグラト・ピレセル1世は即位直後から、国家の求心力を高めるための大規模な建築国家の再構築に着手します。
その最大の象徴が、聖都アッシュルに建立されたアヌ・アダド神殿です。
この神殿は、従来の常識を覆す「ジックラト(聖塔)を左右に2基伴う」という、まったく新しい建築様式で作られた双子型の巨大複合神殿でした。
もともとは、彼の父王であるアッシュル・レシュ・イシ1世が、天界の最高神「アヌ」と、嵐と雷の神「アダド」という、帝国の軍事力を象徴する二大神を同時に祀るために構想・着工していた国家プロジェクトでした。
ティグラト・ピレセル1世はこれを引き継いで完成させ、自らの強大な権威と結びつけることで、「神々に選ばれた絶対的守護者」としての地位を確立します。
この神殿の強固な基壇からは、彼の偉大な治世を克明に記録した記念碑が出土することになります。
粘土で作られたその特異な形状から、考古学の世界では「八角柱碑文(プレット)」と呼ばれています。
楔形文字の解読
このティグラト・ピレセル1世の「八角柱碑文」は、近代の歴史学・考古学において宇宙規模の重要な役割を果たすことになります。
19世紀半ば、オリエント各地で発掘された「楔形文字(アッカド語)」の解読が進められる中、1857年にロンドンの王立アジア協会は、イギリスのローリンソン、ヒンクス、フォックス・タルボット、そしてフランスのオッペルという4人の高名な解読者に、この八角柱碑文の写しを同時に、かつ個別に渡して翻訳を依頼しました。
その結果、4人の翻訳内容が驚異的な一致を示したことで、「楔形文字は完全に解読された」と国際的に認められたのです。
アッカド帝国が1000年以上前に滅亡したあとも、国際共通外交言語(リンガ・フランカ)としてメソポタミアに脈々と生き続けたアッカド語。
その古代の沈黙を破り、現代に数千年の歴史を蘇らせた最大の鍵こそが、このティグラト・ピレセル1世の遺した記録だったのです。
ムシュキの侵攻と、ヴァン湖畔への電撃進軍
ティグラト・ピレセル1世の真骨頂は、その圧倒的な軍事力にありました。
彼の即位当時、アッシリアの北方・北西方の国境線は、アナトリア半島から殺到した謎の精強な民族「ムシュキ」の脅威に晒されていました。
このムシュキは、かつて大帝国ヒッタイトが崩壊したあとに、その版図で急激に勢力を拡大させた「フリギア人(またはその近縁)」であったと考えられています。
彼らはタウルス山脈という険しい天然の要塞を越え、アッシリアの領土へと破竹の勢いで進軍してきました。
その数は実に2万であったとされています。
しかし、若き王ティグラト・ピレセル1世は、この強大な軍勢に対して一歩も退きませんでした。
彼はアッシリアの精鋭軍を率いて出撃すると、ムシュキの大軍を鮮やかに撃破します。
その敗残兵を追撃しながら、峻険な山岳地域を次々と平定し、北方の未知なる巨領、現在のトルコ東部に位置する広大な塩湖「ヴァン湖」の湖畔にまで軍を進め、アッシリアの圧倒的な武威を刻み付けたのです。
当時の碑文には「敵の死体で谷を埋め尽くした」といった、誇張とも思える桁違いの数字や苛烈な軍事記録が誇らしげに並んでいます。
古代の王たちが自らの戦果を最大級に喧伝するための広報戦略(プロパガンダ)という側面はありますが、彼が周辺の国々に対して絶対的な恐怖と抑止力を植え付けた事実は揺らぎません。
さらに、フェニキア人の諸都市から貢納させるなどもしていますが、ティグラト・ピレセル1世の時代になると、アラム人の問題が大きくなっていきます。
アラム人はアッシリアの脅威となっていきました。
宿敵バビロニアとの死闘:バビロン占領と強制移住
西方をアラム人に阻まれたティグラト・ピレセル1世は、その矛先を南方の宿敵バビロニア(イシン第2王朝)へと向けます。
当時のバビロニアの王、マルドゥク・ナディン・アッヘとの戦いは壮絶を極めました。
最初の激突において、アッシリア軍はバビロニア側の強固な防衛線の前に敗北を喫します。
しかし、軍勢を立て直した2回目の遠征において、ティグラト・ピレセル1世はバビロニア軍を完璧に粉砕します。
そして、勢いそのままに聖都バビロンを占領し、王宮を奪うという凄まじい戦果を挙げました。
この際、アッシリアはバビロニアの高度な技術者や住民を大規模に領内へと連行する「強制移住政策」を執行しました。
これは単なる略奪ではなく、帝国の労働力を強化し、同時にバビロニア側の復興能力を根こそぎ奪い去るという、極めて冷徹な戦略でした。
オリエント大飢饉と帝国の縮小
バビロンを大破させ、地中海を制覇したことで、アッシリアは完全復活を遂げたかに見えました。
しかし、ここから予期せぬ事態へと発展します。
ティグラト・ピレセル1世はバビロンを攻略したものの、現地でバビロニア王として即位することはせず、大軍を引き揚げさせます。
その直後、メソポタミア全域を襲ったのが、地球規模の気候変動に伴う大飢饉でした。
この天災による大混乱の隙を突くように、飢えたアラム人の大群がバビロニア、そしてアッシリアへと押し寄せたのです。
この大災害と民族移動が重なったティグラト・ピレセル1世の治世の後半に関しては、混乱のせいか歴史的記録が急激に途絶え、闇に包まれることになります。
暗黒時代の荒波の中で、アッシリアはかつて獲得したシリアやバビロニアの広大な領土をことごとく喪失します。
帝国の支配領域は、メソポタミア北部のチグリス川流域周辺という、かつての「本国」にまで急激に縮小せざるを得なくなりました。
ティグラト・ピレセル1世は英雄的な君主ではありましたが、自然災害には勝てないという事なのでしょう。