名前 | 東虢(とうかく) |
始祖 | 虢叔 |
建国と滅亡 | 紀元前1046年?ー紀元前767年? |
時代 | 西周王朝ー周の東遷期 |
コメント | 鄭により滅ぼされた |
東虢は周の文王の弟の虢仲が封建された事で出来た国です。
虢仲の父親は当然ながら季歴となります。
虢仲の弟の虢叔が西虢に封じられたのに対し、虢仲は東虢に封じられ東西から周の鎬京を守る位置にありました。
当然ながら東虢は西周王朝と同じ姫姓の国であり、先進地帯である中原の地を領有しています。
西周王朝が申侯との対立により崩壊すると、鄭の桓公は東虢や鄶を攻撃し滅ぼしています。
史記だと東虢を滅ぼしたのは鄭の武公となっていますが、実際には鄭の桓公だったとも考えられています。
今回は春秋戦国時代の最初期に滅ぼされた東虢を解説します。
東虢の建国
周の武王は牧野の戦いで殷の紂王を破り、その勢いで殷を滅ぼしました。
周の武王は一族の者や功臣を封建しますが、父親である周の文王の弟の虢仲を制に封じました。
これにより東虢が誕生し、同じく弟の虢叔が西虢の初代君主となっています。
これにより東虢と西虢が誕生しました。
周の武王には周公旦など優秀な弟もいましたが、父親の兄弟で叔父にあたる虢仲や虢叔などは父親の代から仕えており、頼りになる存在でもあったのでしょう。
周の文王は当時としては長命で70歳くらいで没した話しがあり、弟の虢仲なども、それなりの年齢であり文武に関してベテランでもあったはずです。
周の武王が即位した頃には、殷の遺民が反撃の機会を伺っている様な状況であり、予断は許されず西周王朝を西から守る藩屏としても、東虢は期待されていたと考える事が出来ます。
東虢の滅亡
西周王朝時代に東虢は大きめの諸侯の一つだった様ではありますが、どの様な動きがあったのかは不明です。
東虢の君主に関しては、鄭の桓公と伯陽の会話の中に虢叔なる人物がおり、次の様に述べられています。
※国語 鄭語より
虢叔は地勢を頼みとし、鄶仲と共に驕侈怠慢で貪欲です。
虢叔(東虢)は地勢を頼みとし~。の言葉から豊かな地を領有していたのでしょう。
尚、ここで東虢の君主の名前が虢叔となっていますが、周の文王の弟で西虢に封じられた虢叔とは別人です。
鄭の桓公は財産を東虢や鄶などの成周(洛陽)近辺の国々に預け、東虢らは土地の一部を割き鄭の桓公に差し出しました。
東虢は西周王朝の一族ではありますが、始祖の虢仲は周の文王の弟であり、この時代の血縁で考えれば西周王朝とはかなり離れています。
それに対し、鄭の桓公は周の厲王の末子で周の宣王の弟であり、西周王朝の本家とも血筋的に近く、それでいて鄭の桓公が司徒になっているのも魅力だったのでしょう。
虢叔は利に釣られたのか、鄭の桓公の頼みを聞く事になります。
周の幽王が褒姒と戯れ、申侯や宜臼と対立し滅びると、東虢は鄭の桓公の財産を奪いました。
こうした混乱の中で鄭の桓公は成周を抑え、策略で鄶を滅ぼすと東虢を攻撃したわけです。
鄭の桓公は東虢に財産を奪われた事を理由に攻撃を仕掛けたと考える事が出来ます。
東虢は鄭の桓公の攻撃を耐えきる事が出来ず滅びました。
この時までに虢叔が生きていたのかは不明ですが、ここで戦死したのか、西虢に逃げたのか、この辺りは記録がなくよく分かりません。
しかし、東虢が鄭により滅びたのは間違いないでしょう。
東虢は周の東遷により周の平王が洛陽に都を遷す前に滅びました。