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唐古・鍵遺跡は多数の出土品が見つかった弥生時代の集落

2024年4月24日

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宮下悠史

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名前唐古・鍵遺跡
読み方からこかぎいせき
時代弥生時代ー古墳時代前期
コメント大和で最も発掘調査が進んでいる弥生遺跡

唐古・鍵遺跡は弥生時代の初期から古墳時代の前期まで栄えた事が分かっています。

大和の弥生時代の遺跡としては土器も多く出土しており、最も調査が進んでいる遺跡と言えるでしょう。

さらに、唐古・鍵遺跡には環濠も発見され注目を集めています。

大環濠は唐古・鍵遺跡の特徴とも言えるでしょう。

唐古・鍵遺跡の名前の由来ですが、奈良県磯城郡田原本町のHPには次の様に書かれています。

北幼稚園建設に伴う調査。ムラの南側を囲む大溝の検出、土製や石製の銅鐸鋳型など鋳造関連遺物が出土し、

銅鐸をつくるムラとして大遺跡の認識がさらに深まる。 この調査により、遺跡が大字鍵にも拡がることが確認され、

遺跡名が「唐古遺跡」 から「唐古・鍵遺跡」へと変更される。

奈良県磯城郡田原本町より

今回は弥生時代を知る上で重要な遺跡である唐古・鍵遺跡を解説します。

唐古・鍵遺跡の環濠

唐古・鍵遺跡は弥生時代の前期に小さな集落から始まっている事が分かっています。

弥生時代の前期から唐古・鍵遺跡では環濠が彫られ始めました。

弥生時代の中期になると大環濠が出来上がり、大型集落としての範囲が確定されています。

弥生時代の中期には唐古・鍵遺跡は大和でも大型の集落となっていたわけです。

弥生時代の環濠と言えば九州の吉野ケ里遺跡を代表とする様に、戦争の為の防御施設に思うかも知れません。

弥生時代の環濠と言えば倭国大乱などの戦乱をイメージする人もいる事でしょう。

しかし、唐古・鍵遺跡では水害から地域住民を守るために、環濠を建造した事が分かっています。

環濠は敵の攻撃を防ぐためのものばかりでもないという事が分かります。

唐古・鍵遺跡の大環濠ですが、弥生時代の中期が終わる頃には洪水により埋まってしまいました。

しかし、大環濠は住民の生命を守るための防災施設である事から、再び環濠が建設される事になります。

ただし、唐古・鍵遺跡の末期になると環濠が再び掘られる事はなくなりました。

大型建物

唐古・鍵遺跡では弥生時代に中期には大型建物が造営された事が分かっています。

大型建物には弥生時代の最大級の柱が使われており、特徴的な建造物が建てられていたともされているわけです。

柱穴に関しては現在でも見る事が出来ます。

ただし、二棟の大型建物に関しては単体の建物なのか、建物群となるのかはイマイチはっきりとはしない状態です。

さらに言えば、大型建物に首長がいたなども分かってはいません。

唐古・鍵遺跡の特徴

唐古・鍵遺跡では銅鐸や様々な青銅器の鋳造が行われていました。

鋳造などの関連遺物も既に発見されている状態です。

青銅器だけではなく石器や木製品の生産も行われており、大和の中でも大規模な集落だと言えます。

尚、唐古・鍵遺跡では4点の鉄製品が発見されており、青銅製品は32点が見つかっており、円形銅器、腕輪、銅鏃、銅鐸の破片などがあります。

この中で銅鏃が24点を占めています。

唐古・鍵遺跡では木棺墓や方形周溝墓、土器棺墓が見つかっています。

しかし、墳墓の副葬品に関しては殆ど発見されていません。

唐古・鍵遺跡と土器

唐古・鍵遺跡では土器が見つかっていますが、地域別にみると次の様な感じになっています。

地域点数(約)
吉備・瀬戸内20
北部九州
近江40
伊賀・尾張20
伊勢湾沿岸60

上記の図を見ると伊勢地域の土器が多く北部九州に関しては、1点しか発見されていません。

弥生時代に邪馬台国があり、三国志の魏から卑弥呼親魏倭王に冊封された事が魏志倭人伝に書かれています。

しかし、唐古鍵遺跡を見る限りでは西方との繋がりが薄いとも考えられており、邪馬台国大和説に対して否定的な見方となる場合もあります。

同様に纏向遺跡においても、発見される土器は東海系が多く、大陸や九州との関係が薄いと見る事も出来るわけです。

唐古・鍵遺跡の繁栄と衰退

先に述べた様に唐古・鍵遺跡は弥生時代の前期は小さな集落でしたが、中期に水害がありながらも繁栄を続けたと考えられています。

弥生時代の後期には遺物量も増え多数の井戸が発見されており、最も拡充した時期だともされています。

ただし、弥生時代の後期の大型建物や炉跡の様な青銅器の生産遺構が見つかっておらず、後期は中期に比べると不明な点が多いです。

古墳時代の前期になると集落は終焉を迎える事になります。

それでも、唐古・鍵遺跡は弥生時代前期から古墳時代の前期まで存在しており、安定した集落経営が為されていたと言えるでしょう。

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