
陶朱公は范蠡が最期に名乗った名前です。
斉では鴟夷子皮と名乗っていましたが、陶に移ってからは陶朱公と名乗りました。
陶朱公は陶では莫大なる財産を築き、大金持ちの事を「陶朱の富」と呼ばれるまでになります。
陶に移ってからも、洞察力は健在であり、次男を救うために、長男を楚の荘生の元に派遣するも失敗を予見した逸話があります。
范蠡の後半生は西施と一緒に暮らした話もありますが、史記の越王句践世家を見る限りでは、陶朱公が西施と暮らした話はありません。
売買で巨万の富を得る
范蠡は越王句践の元を去ってから、斉に行き鴟夷子皮と名乗りますが、斉の宰相に任命されると、権力から離れる為に陶に移りました。
范蠡が陶で名乗った名が、陶朱公となります。
陶朱公は陶は天下の中央で交易に有利な地であり、富を増やすのに最適だと考えました。
親子で蓄財に励み、陶朱公は時機を見るのに巧みであり、下落すれば買占め、上がれば売り、1割の利益を追ったと言います。
売買は成功し、陶朱公は巨万の富を築き、陶朱公の名は天下に拡がったと言います。
陶朱公の長男と末子
次男が人を殺す
陶朱公が陶に定住してから、末子が生まれました。
末子が成人した頃に、陶朱公の次男が人を殺し、楚で捕らえられる事になります。
これを知った陶朱公は「人を殺して死刑になるのは当然であるが、『千金の子は市に死せず』と聞いている」と述べ、末子を楚に派遣しようとしました。
陶朱公の口から出た「千金の子は市に死せず」の言葉は「金持ちの子は市場で死刑にされる事はない」とする皮肉も混ざっている様な言葉でもあります。
范蠡は末子に千溢の黄金を持たせ荷物の中に隠し、楚の向かわせようとしましたが、これに黙っていなかったのが陶朱公の長男です。
長男の主張
陶朱公の長男は「自分に任せて欲しい」と強く主張しました。
長男がいつ生まれたのかは不明ですが、末子と違い陶朱公が如何にして、金持ちになったのかも見て来た様な人でもあったわけです。
史記の越王句践世家には、范蠡が家族で協力して蓄財に励んだ話がありますが、陶朱公と苦楽を共にしてきたのが長男でもあったのでしょう。
陶朱公は長男を退け末子に行かせようとしますが、長男は「家に長男がいれば、それを家督と申します。弟が罪を犯したのに、父上は私を行かせないのは、私が不肖だからです」と述べ、自害しようとしました。
この様子を見て驚いたのが、陶朱公の妻であり、妻は「末子をやっても次男が助かるかは分かりません。それにも関わらず、虚しく長男を失ってもよいのでしょうか」と取り成しました。
陶朱公は仕方がなく、長男を楚に派遣する事になります。
陶朱公は楚の荘生と仲がよかった事もあり書簡をしたため、長男には「楚に到着したら、すぐに千金を荘生に渡し、荘生に全て任せ、何もせず慎むように」と伝えました。
長男は楚に向かいました。
この時に、陶朱公の長男は自らも密かに数百金を用意し、楚に出かけたわけです
楚の荘生
陶朱公の長男は楚に到着すると、荘生の居場所を探し出しますが、みすぼらしい家に住んでいました。
長男は陶朱公の書簡を荘生に渡し、千金を差し出す事になります。
陶朱公の書簡を受け取った荘生は、千金を受け取りますが「ここに滞在してはならない。直ぐに帰る様に」と言い渡しました。
長男は荘生の言葉を聞きはしましたが、楚から帰る事はしなかったわけです。
長男からしてみれば、荘生の姿を見て何が凄いのかも分からず怪しみ、楚から離れなかったのでしょう。
陶朱公は荘生に全て任せる様にと言いましたが、長男は言いつけを守らず楚に残りました。
荘生の心を知れず
荘生は千金は受け取りましたが、頼まれごとを引き受けた証拠として預かっただけであり、妻にも「これは陶朱公の金だから、手を付けない様に」と言い渡してありました。
荘生は陶朱公の次男が助かった後に、千金は返すつもりだったわけです。
荘生は楚王に参内すると、楚に害がある予兆があると述べ徳を積むようにと言上しました。
楚王は荘生の言葉を信じ、大赦を出す準備を始める事になります。
陶朱公の長男は大赦が出るという事を聞くと、荘生の前に行きました。
荘生は長男を見ると驚くと同時に「金を取りに来たのだ」と悟ります。
長男は金を受け取ると喜びました。
長男は荘生が楚王の言上した事など知らなかったのでしょう。
しかし、荘生は若造に欺かれた事を恥じ入り、楚王に再び参内すると「人々は楚王の近しい者が賄賂を受け取り、陶朱公の子の為に大赦を出そうとしていると噂しています」と告げました。
楚王は怒り「誰が陶朱公の為に大赦など出すか」と述べると、陶朱公の次男を処刑した上で翌日に大赦を出す事になります。
これにより、陶朱公の長男は弟の遺骨を持ち、陶に帰る事になりました。
長男の末子の違い
長男が楚から遺骨を持ち帰ると、母親をはじめ皆が悲しみましたが、陶朱公だけは笑っていました。
陶朱公は、次の様に述べています。
陶朱公「私は最初から次男を助ける事が出来ないと思っていた。
長男が次男を愛していなかったわけではない。
単に思い切ってお金を捨てる事が出来なかったのだ。
長男は儂と小さい頃から生活の苦しさも見て来たから、財産の大切さも知っており惜しんだのである。
末子に至っては生まれた時から富貴の身であり、立派な車や馬を持ち、狡兎を追いかけまわしていた。
財産を作る苦労など知らないし、それ故に物惜しみもせず、軽々しく財産を棄てる事も出来るのだ。
長男は苦労を知っているだけに、財産を棄てる事が出来ない。
それが理由で、次男を殺す事になってしまったのである。
当然の事であり、悲しむには及ばない。
実のところ儂は遺骸が届くのを待っていたのである」
陶朱公は長男と末子の歩んで来た人生の違いを知っており、長男を行かせた時点で、次男は助からないと思っていた事になります。
陶朱公の言葉を聞いた時に「だったら長男が楚に出かける前に、教えてやればいい」と思った人もいるのではないでしょうか。
これが単なる説話の可能性もありますが、陶朱公としてみれば「金を棄てる事が出来ないなら、何処かで必ず失敗する」と考えた可能性もあると感じました。
それと同時に、長男に「金を棄てる事が出来る大切さ」を身をもって教えた様にも見えます。
陶朱公の洞察力の高さを表す逸話でもあるのでしょう。
陶朱公の最後
史記の越王句践世家の最後は、陶朱公の話で占められていますが、最後は次の様にまとめられています。
※史記越王句践世家より
范蠡は三度住む場所を変えたが、その度に天下に名を現わした。
単に土地を変えただけではなく、留まった地では必ず名を挙げたのである。
最後は陶で老衰により亡くなった。
故に世間では、その名を伝えて陶朱公と称したのである。
この記述から范蠡が陶で亡くなった事が分かるはずです。
司馬遷は史記の中で、范蠡の出処進退及び天寿を全うした事を褒め称えました。