古代日本 古墳時代

造山古墳の謎を解く。誰が眠っているのか。

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宮下悠史

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名前造山古墳(つくりやまこふん)
時代古墳時代
被葬者不明
場所岡山県岡山市北区新庄下
コメント日本で第4位の規模の古墳でありながら謎が多い

造山古墳は岡山県総社市にある超巨大古墳です。

造山古墳は古墳の規模ランキングで4位に位置している事から、古代吉備にはかなりの権力者がいた証ともされています。

ただし、造山古墳の被葬者は不明であり、謎が多い古墳でもあります。

応神天皇の陵墓である誉田御廟山古墳と造山古墳は共通点を見出す事が出来る為、造山古墳は応神天皇の時代に造営されたと考えられています。

一つの説として日本書紀に応神天皇の時代の人物として、御友別なる者がおり、御友別こそが造山古墳の被葬者だったのではないかともされている状態です。

尚、岡山県には古墳規模ランキング10位の作山古墳も存在し、造山古墳の被葬者と作山古墳の被葬者は兄弟だったのではないかとする説もあります。

日本第4位の巨大古墳

造山古墳は全国で第4位の規模を誇る前方後円墳です。

順位古墳被葬者
大仙陵古墳仁徳天皇
誉田御廟山古墳応神天皇
上石津ミサンザイ古墳履中天皇
造山古墳不明

造山古墳の付近には陪塚と呼ばれる巨大古墳を支える小さな古墳が6基存在しています。

(造山古墳本隊の南西の水色のマークが陪塚)

6基の陪塚の中の榊山古墳(造山第一号墳)、千足古墳(造山第五号墳)では乱掘があり、多くの遺物が出土した事でも知られています。

巨大古墳を造るには吉備の国が豊かで食糧需給が安定している必要がありますが、吉備の力の源泉は吉備の穴海を利用した交易にありました。

造山古墳と誉田御廟山古墳

近年では巨大古墳の三次元計測が行われる様になり、様々な事が分かってきました。

巨大古墳になるに従い斜面の傾斜が緩くなる事も分かってきています。

古墳の斜面が急であれば古墳が崩れてしまう事もあり、巨大古墳になるにつれて傾斜を緩くしてあるのでしょう。

これらは現代の土木工事にも使われている技術であり、古墳と言っても当時のテクノロジーを駆使したものだという事が分かります。

古墳時代は大土木工事の時代と言っても差し支えないでしょう。

過去には造山古墳は代17代履中天皇の陵墓とされる上石津ミンザイ古墳に近いと考えられてきました。

しかし、最近の研究では造山古墳は応神天皇の陵墓とされる誉田御廟山古墳に近い事が分かってきています。

尚、誉田御廟山古墳と造山古墳では設計原理が極めて近く、同じ人が設計したのではないかとも考えられています。

埴輪と巨大古墳

巨大古墳の築造の順番を調べるのに、最も重要な指標が埴輪だと言われています。

箸墓古墳を最古の巨大古墳としたのも、埴輪からの手掛かりが大きかったわけです。

造山古墳の時代は円筒埴輪が野焼きから穴窯の焼成に代わる時期でもありました。

野焼きに比べると穴窯は安定した温度で焼かれる事もあり、黒斑が見られなくなります。

技術革新は一気に変わる事は稀であり、野焼きと穴窯が共存した時期も存在したと考えられています。

造山古墳の円筒埴輪は穴窯焼成のものが多いと言われており、穴窯が主流になっている時代に建造されたとされています。

第17代履中天皇の陵墓だとされている上石津ミンザイ古墳では野焼き段階のものが主流であり、造山古墳よりも古いと考えられています。

第16代応神天皇の陵墓は誉田御廟山古墳だとされていますが、円筒埴輪に黒斑が少なく造山古墳よりも若干後に、築造されたとみる事が出来ます。

円筒埴輪から見ると上石津ミンザイ古墳が最も古く、次に造山古墳となり、誉田御廟山古墳が最も新しい古墳という事になります。

記紀では応神天皇が第15代であり、その間に仁徳天皇がおり、17代目が履中天皇となりますが、古墳的には履中天皇陵の方が古いと言えるでしょう。

尚、吉備では穴窯の導入が遅かったとする説もあり、造山古墳と誉田御廟山古墳は同時期に造られたとも考えられています。

埴輪の外面調整などから考えても上石津ミンザイ古墳が最も古く続いて造山古墳、誉田御廟山古墳と続く事が分かってきました。

造山古墳と周辺の古墳

吉備では中心地域で前方後円墳が巨大化する一方で、周辺地域では古墳のサイズが小さくなっていった事が分かっています。

これらの事から吉備では権力の集中が起きたのではないかとも考えられています。

さらに、瀬戸内海を挟んだ四国の讃岐でも古墳が小型化しており、造山古墳の時代には古墳の築造自体が停止していました。

瀬戸内海の富みが吉備に集中した結果とも言えるでしょう。

造山古墳の陪塚である千足古墳には肥後の横穴式石室や資材が使われるなど、九州とも強い繋がりが見られるわけです。

造山古墳の時代が吉備の全盛期だと考えて間違いないでしょう。

造山古墳の被葬者は誰なのか

日本書紀を見ると応神天皇の時代に、御友別なる人物がおり、妹の兄媛が応神天皇に嫁いでいました。

兄媛は応神天皇に嫁いでから暫く父母に会っていなかった事もあり、吉備に帰り父母に会いたいと考えます。

応神天皇は兄媛を吉備に帰らせますが、兄媛がいなくなると応神天皇に兄媛を懐かしむ心が芽生え、淡路島に狩りに行った時に、小豆島から足を伸ばし吉備の葦守宮に入りました。

この時に兄媛の兄の御友別がやってきて、応神天皇を持て成しています。

応神天皇は御友別を気に入り吉備の各地の県に御友別の兄弟子孫を封じ、それが下道や上道などの祖だったとする話があります。

この御友別こそが、造山古墳の被葬者だったのではないかと考えられています。

日本書紀では応神天皇は御友別に対して好意的ですが、吉備の財力を恐れ子孫を分割統治とし、弱体化させようとしたのではないかとも考えられています。

実際に日本の古墳ランキング第10位の作山古墳も吉備にあり、当時の吉備は交易により莫大な財を成しており、大和王権にとっても脅威だったのではないかと考えられているわけです。

造山古墳以後の吉備

造山古墳に続く古墳が岡山県総社市にある作山古墳です。

ただし、総社市の作山古墳は造山古墳や誉田御廟山古墳とは設計が違うとする指摘もあります。

総社市の作山古墳に続くのが岡山県赤磐市両宮山古墳だとされていますが、規模は小さくなり葺石が発見されていない状態です。

両宮山古墳では埴輪も発見されておらず、不自然な古墳になっています。

日本書紀で雄略天皇の7年に吉備下道臣前津屋に対する誅殺事件があり、他にも雄略天皇が吉備上道臣田狭の妻の稚媛を奪った話があります。

雄略天皇の逸話が何処まで正確なのかは不明ですが、両宮山古墳の埴輪も葺石も存在しない未完成の古墳とも言える部分と結び付けて考えるべきだとする主張もあります、

日本書紀の記述で考えれば造山古墳があった応神天皇の時代に吉備は全盛期を迎え、雄略天皇の時代に没落したとみる事が出来ます。

尚、造山古墳の時代を全盛期とする吉備に反し、大和では誉田御廟山古墳に続き仁徳天皇の陵墓とされる大仙陵古墳が造られるなど、勢力は拡大していきました。

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