古代日本 古墳時代 天皇の治世

箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない

2024年5月6日

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宮下悠史

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名前箸墓古墳
読み方はしはかこふん
別名箸中山古墳
被葬者倭迹迹日百襲姫命
コメント卑弥呼の墓だとされる場合がある

箸墓古墳は邪馬台国卑弥呼の墓ではないかとも考えられています。

メディアなどでも箸墓古墳が卑弥呼の墓と言わんばかりに宣伝したりしている状態です。

しかし、魏志倭人伝を読んでも卑弥呼の墓が箸墓古墳だとは書いてありません。

日本書紀を読むと箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓だと書いてあり、卑弥呼の墓ではないと言えます。

箸墓古墳は日本で最古の大型前方後円墳だともされており、注目されている状態です。

纏向遺跡が奈良盆地東南部にありますが、纏向遺跡は箸墓古墳を造営する為に造られたのではないか?と考える人もいます。

箸墓古墳の全長は280メートルもあり、20万基あると言われている日本の古墳の中でも11位にランクインされています。

箸墓古墳の造営歌まで残されており、当時としては大土木工事だった事は間違いないでしょう。

近年では考古学的に見ても卑弥呼の墓ではなかったのではないか?とする見解も出ています。

今回は箸墓古墳が卑弥呼の墓ではない理由を解説していきます。

名前住所電話番号
箸墓古墳(外部リンク)奈良県桜井市箸中0744-42-9111

日本書紀の箸墓古墳

孝霊天皇の皇女に倭迹迹日百襲姫命がいました。

倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の時代に神が憑依し疫病を抑える方法を伝えたり、謀反を予言したりした話が残っています。

倭迹迹日百襲姫命には不思議な人物でもあり、神であるはずの大物主と結婚した話があるわけです。

倭迹迹日百襲姫命は大物主に姿を見せて欲しい言い、大物主が姿を見せると蛇だった事で、驚き尻もちをつきました。

尻もちをついた場所に箸があり、箸が倭迹迹日百襲姫命の陰部を突きさしてしまい倭迹迹日百襲姫命は亡くなったと伝わっています。

日本書紀では倭迹迹日百襲姫命を大市に葬り「箸墓」と呼んだと記録されています。

箸が刺さって亡くなった事から「箸墓」と呼ばれたのでしょう。

日本書紀によれは「箸墓」は「昼は人間が造り、夜は神が造った」とあります

箸墓は大坂山の石を運んで造り、山から墓に至るまで、人間が連なって手渡しで運んだと記録されました。

箸墓古墳を造るにあたり、次の様に歌ったとあります。

※日本書紀より

大坂山に人々が並んで登り、沢山の石を手渡しして、渡していけば渡せるのだろうかなあ。

箸墓古墳には造営歌まで残されている事が分かるはずです。

造営歌まで作られる辺りは、箸墓古墳が当時としては如何に大土木工事だったのかを表しています。

実際に箸墓古墳の全長は280メートルという巨大なサイズとなっています。

日本書紀の記述を見る限りでは、箸墓古墳に対して「卑弥呼」の名前は出てこないわけであり、明らかに倭迹迹日百襲姫命のお墓だと言えるでしょう。

尚、箸墓古墳の話に卑弥呼が出てこないわけではなく、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫命の同一人物説も存在しています。

箸墓古墳が卑弥呼の墓だとされる理由

魏志倭人伝の記述

正史三国志の魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなった話があり、次の様に記載されています。

※魏志倭人伝より

卑弥呼が亡くなると大いに冢を作った。径は100余歩であり、殉葬された奴婢は100余人ほどいた。

魏志倭人伝にある径100歩の墓というのが、箸墓古墳ではないかとされているわけです。

ただし、魏志倭人伝には卑弥呼の墓が箸墓古墳だとは一言も書かれていません。

後述しますが、炭素14年代測定法で箸墓古墳が造営されたのが240年~260年とする結果が出た事でも、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとされる理由でもあります。

卑弥呼は247年頃に亡くなったと考えられており、炭素14年代測定法の結果を見れば年齢が被る事になります。

しかし、魏志倭人伝には径100歩の墓とあり、普通に読めば円墳になるはずであり、箸墓古墳の様な前方後円墳ではないでしょう。

魏志倭人伝に書かれた径100歩と言うのが、前方後円墳の後円部を指すとする説もありますが、強引な解釈にも感じています。

日本書紀や魏志倭人伝の文献的な資料からしてみれば、箸墓古墳が卑弥呼の墓だというのは無理がある事が分かるはずです。

炭素14年代測定法の問題点

炭素14年代測定法を簡単に言えば、土器などに付着した植物残量の炭素14を調べる事で年代が分かる方法です。

食物が活動を停止すると炭素14が段々と減っていき、どれほどの量が減ったのかで年代を割り当てるのが炭素14年代法となります。

因みに、天然炭素には炭素14だけではなく、炭素12や13も存在しています。

炭素14年代測定法を使うにあたり、保存の良い単年性陸産植物が最適ですが、元が何なのか分からない様な土器の付着物などでは、年代が正確に測定できないわけです。

最近では炭素14年代測定法の精度が上がって来たとも言われていますが、同じ古墳を炭素14年代測定法で調べても、数値が中々に安定しない問題もあります。

数値の安定性の問題も考えれば、炭素14年代測定法の数値が絶対と考えるよりも、考古学も含めた様々な面からのアプローチが必要と言えるでしょう。

現在では炭素14年代測定法で出された数値に対し疑問点を述べる専門家も少なくはありません。

さらに言えば、炭素14年代測定法に従い卑弥呼と箸墓古墳の年代が重なったとしても、それが卑弥呼の墓だとは限りません。

邪馬台国を大和にするには纏向遺跡などからも大陸との深い繋がりが確認出来ねばなりませんが、現時点では大和は西方よりも伊勢などの東方と繋がりが深い事が分かってきました。

箸墓古墳の考古学的な見解

最古の前方後円墳

箸墓古墳ですが、過去には最古の前方後円墳だとは認識されていませんでした。

箸墓古墳の墳丘には円筒埴輪が使用された後があり、最古の古墳とされていた京都の椿井大塚山古墳や奈良県・桜井茶臼山古墳には埴輪が使用された形跡がなく、箸墓古墳は最古の古墳とはされていなかったわけです。

古い古墳である椿井大塚山古墳や桜井茶臼山古墳に埴輪が無く、箸墓古墳だけに埴輪があった事で比較的新しい部類の古墳だと考えられてきました。

しかし、埴輪の起源が大和ではなく吉備だと分かって来ると流れが変わります。

銅鐸と同様に埴輪も大和が起源ではなかったわけです。

日本書紀の記述でも垂仁天皇と野見宿禰が相談し出雲から工人を呼び寄せて埴輪を作らせており、埴輪が大和発祥ではない事になっています。

さらに、京都の椿井大塚山古墳を調べると三角縁神獣鏡が出土されただけでなく、布留式の土器が発見され椿井大塚山古墳の築城が古墳時代の前期だと判明しました。

布留式土器は4世紀の土器だとする考えが多くあり、椿井大塚山古墳の造営は4世紀だと考えられる様になったわけです。

宮内庁の方でも箸墓古墳の特殊埴輪や大型二重口緑壺を公開しました。

この大型二重口緑壺が布留式土器であり、椿井大塚山古墳や桜井茶臼山古墳で発見された土器と酷似しており、これにより箸墓古墳が最古の大型古墳だと考えられる様になったわけです。

ただし、箸墓古墳は最古の古墳であるとはされてはいますが、桜井茶臼山古墳や椿井大塚山古墳、ホケノ山古墳と比較しても、格段に古いという訳でもないのでしょう。

箸墓古墳を卑弥呼の墓とするには、3世紀の庄内式土器の出土が必要になりますが、現時点では箸墓古墳から庄内式土器は発見されていません。

それでも、箸墓古墳の築造に関しては、庄内期の終わり頃だった可能性もあり、箸墓古墳の奥底には庄内式土器が眠っている可能性があります。

卑弥呼が自分の陵墓を建設するに辺り、生前から築造を始めた可能性も高く、布留式土器が三世紀前半から中頃にまで遡る事が出来るのであれば、箸墓古墳と卑弥呼に接点を見出す事が可能です。

尚、古墳の元になっているのが弥生時代の墳丘墓ですが、大和からは墳丘墓の発見が少なく、突如として古墳が誕生したとみる事も出来ます。

箸墓古墳だけに埴輪があった理由

箸墓古墳、桜井茶臼山古墳、椿井大塚山古墳で酷似した布留式の土器は発見されましたが、箸墓古墳だけに埴輪があり、桜井茶臼山古墳と椿井大塚山古墳には埴輪が無い問題があります。

箸墓古墳の南に桜井茶臼山古墳がありますが、埴輪の代わりに後円部の墳頂に丸太垣がある事が分かりました。

桜井茶臼山古墳の石室の周りには丸太垣が存在するわけです。

埴輪と木柱という差はあれど、区画を目的とする円筒埴輪と配列の状況は同じだと言えます。

それらを考えると、桜井茶臼山古墳の築造において埴輪の代わりに木柱を使用したと言えるでしょう。

桜井茶臼山古墳は200メートルの大型古墳であり、場所は柳本・大和古墳群より南の初瀬川の南に位置しているわけです。

桜井茶臼山古墳は古墳群よりも離れた特殊とも言える場所にあり、埴輪を使用できなかった。もしくは、何かしらの問題があり出来なかったとも考えられています。

箸墓古墳と言っても後円部にのみ埴輪があり、壮大な埴輪列があったわけでもありません。

それらを考慮すると、何かしらの問題により桜井茶臼山古墳では埴輪が置かれなかったと考えられています。

椿井大塚山古墳にも埴輪が存在しませんが、椿井大塚山古墳は京都にあり箸墓古墳と離れている事が分かるはずです。

椿井大塚山古墳は地域性により埴輪が置かれなかったとも考えられています。

尚、箸墓古墳に続く古墳と考えられている西殿塚古墳には、特殊埴輪は使われてはいませんが、様々な種類の埴輪が大量に使わている状態です。

埴輪はシンプルな形での大量生産の時代に入ったとみる事が出来ます。

黒塚古墳でも埴輪は発見されていません。

黒塚古墳で埴輪が発見されない理由は、古墳の規模だと考えられています。

黒塚古墳は箸墓の半分以下であり、箸墓古墳と比べると、明らかに権力の差があり比較対象にはなりません。

尚、黒塚古墳から三国志の魏から賜わったとされる黄幢らしきものが発見され、邪馬台国から魏への使者となった難升米の墓とする説もあります。

因みに、桜井茶臼山古墳から石製品の腕輪が発見され、纏向遺跡末期の庄内期の遺跡からも石の腕輪(未製品)が発見され、石製品が既に古墳時代前期から存在した事が確認されました。

古墳時代の全盛期は5世紀

古墳時代の中期を5世紀だとする話に異論がある人はほぼいないはずです。

古墳時代の全盛期は応神天皇、仁徳天皇、履中天皇の時代であり、この時代に大阪平野では巨大古墳が出現しました。

古墳名被葬者
大仙陵古墳(大阪)仁徳天皇
誉田御廟山古墳(大阪)応神天皇
上石津ミサンザイ古墳(大阪)履中天皇、
造山古墳(岡山)不明
河内大塚山古墳(大阪)雄略天皇or安閑天皇

中国側の宋書倭国伝には倭の五王の記述があり、大陸との繋がりが活発になり5世紀には大陸と繋がりが深い副葬品も多く発見される事になります。

古市古墳群や百舌鳥古墳群も5世紀だと考えるのが普通です。

古墳時代の中期が5世紀だと考えれば、古墳時代の前期後半は4世紀後半という事になります。

4世紀後半と言えば空白の150年でもあり、広開土王碑には倭国と高句麗が朝鮮半島を舞台に戦った記録も残っている時代です。

日本は朝鮮半島で激闘を繰り広げながらも、古墳時代全盛期の直前にいたと言えるでしょう。

箸墓古墳を卑弥呼の墓とするには、箸墓古墳を少なくとも250年まで遡らせなければなりません。

古墳の起源は後漢王朝の末期まで遡る事が出来るとする説もありますが、後漢王朝が滅びたのが220年であり、その説に従えば3世紀と4世紀が古墳時代の前期という事になります。

それらを考慮すると、古墳時代の前期がかなり長くなってしまい不自然に感じられるわけです。

箸墓古墳から布留式土器が出土されている事から、箸墓古墳の完成は4世紀だと考えた方が自然だと言えるでしょう。

【結論】箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない

結論なのですが、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと感じました。

卑弥呼が活躍した時代は3世紀の前半であり、247年頃に亡くなっている事から、箸墓古墳で出土する土器が布留式土器ではなく、庄内式土器で無ければおかしいと言えるでしょう。

さらに、埴輪などの話も加わり、日本側の記述では倭迹迹日百襲姫命のお墓という事になっています。

それらを考慮すると、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとは言えないはずです。

尚、箸墓古墳の駐車場には卑弥呼のノボリがはためいているなどの話も聞きます。

箸墓古墳が卑弥呼の墓にされてしまう一つの理由として、宣伝目的というのもあるのでしょう。

邪馬台国阿波説がありますが、卑弥呼フェスが行われ街おこしの為に「熱造」という言葉もありました。

街おこしは熱造しろ!? 徳島・卑弥呼フェス(外部リンク)

さらに、吉野ケ里遺跡と邪馬台国時代を重ね合わせて佐賀県知事が臨時会見を開くほどになっています。

日本各地で卑弥呼人気にあやかり街おこしを考えているのでしょう。

秦の始皇帝の時代に海に出た徐福なる方士が記録されていますが、日本各地で徐福伝説があるのも薬草販売や町おこしに繋げたい思惑のあるはずです。

個人的な感想ではありますが、町おこしやイベントを盛り上げる為に、卑弥呼が使われる事も多いと言えます。

ただし、箸墓古墳には卑弥呼は眠ってはいないという結論に到達しました。

※この記事は関川尚功さんの考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国(梓書院)をベースに記述しました。

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