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海の民は本当に文明の破壊者だったのか

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宮下悠史

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名前海の民
時期紀元前1200年頃
コメント東地中海を震撼させた存在だったと伝わっている。

海の民は世界史の授業でも必ずと言ってよいほど登場し、紀元前1200年のカタストロフを引き起こし、文明の破壊者として名が通っている存在です。

エーゲ文明を崩壊され古代ギリシアを暗黒時代に突入させ、ヒッタイトを滅ぼしウガリトを壊滅させるなど、東地中海を暴れまわったともされています。

海の民はエジプトにも攻め入りますが、ラムセス3世の奮戦により撃退され、シナイ半島やレヴァント地域の南部に入植しペリシテ人になったとも考えられてきました。

しかし、近年の研究により紀元前1200年のカタストロフの全てを海の民が原因とするのはナンセンスだとする見解が拡がっています。

実際に近年ではヒッタイトを滅ぼしたのは海の民ではなかったとする説も主流になりつつある状態です。

尚、メソポタミア文明では、海の国第一王朝や海の国第二王朝が存在しましたが、海の民とは無関係だと考えられています。

海の民と大規模民族移動説

海の民は長らく大規模な民族移動だと信じられてきました。

紀元前1200年頃にバルカン半島にはアカイア人がいましたが、北方からドーリア人の襲撃があり追い出されてしまいます。

アカイア人はエーゲ海の方に移動し、エーゲ海の様々な民族を混乱に陥れました。

エーゲ海にいた民族をまとめて海の民と呼び、海の民はアナトリア半島やシリア、エジプトを目指す事になります。

難民である海の民が現れた事で、オリエントは大混乱となります。

エーゲ文明は崩壊し、海の民がアナトリア半島に向かうと、ヒッタイトが滅亡しました。

海の民がシリアに向かうとフェニキア人たちに混乱をもたらし、最大の都市であるシドンが衰退しますが、フェニキア人は不屈の精神を見せティルスが興隆する事になります。

海の民がエジプトに向かうと、エジプト新王国のラムセス3世は海の民との決戦を選択し勝利しました。

エジプト新王国に敗れた海の民は、シナイ半島やレヴァント地方の南部に入りペリシテ人となります。

上記の様に覚えた人も多いのではないでしょうか。

近年では海の民が本当にオリエントの世界を破壊しつくしたのか疑問を持たれており、紀元前1200年のカタストロフを海の民だけを原因とするのは早計ではないかと考えられる様になってきました。

海の民よる大規模民族移動説は過去には主流でしたが、現在では否定される様になってきています。

海の民の名前の由来

海の民ですが、エジプト新王国の記述に「海の民」という言葉があるわけではありません。

エジプト新王国側が海の民を構成する9つの民族の総称として、海の民と呼んだわけではないという事です。

海の民の名前の由来ですが19世紀の学者により名付けられました。

フランス人の考古学者のガストン・マスペロにより「海の民」の名前が拡がったとされています。

海の民と東地中海

海の民が襲来する前に、大まかな地中海世界を最初に解説しておきます。

紀元前1200年頃の地中海は後期青銅器時代が終わり、鉄器時代に移行する時期でした。

エーゲ海にはエーゲ文明があり、ミケーネ文明が覇者となっていました。

線文字Bやミケーネ土器が有名です。

アナトリア半島ではヒッタイトが最大勢力となっており、西部にはアルザワも存在していました。

キプロス島も銅の一大産地として栄えています。

キプロス島がアラシヤだとも考えられています。

レヴァント地域にはウガリト王国が存在していました。

ウガリトは貿易拠点にもなっており、各地の人々が集まり繁栄していたわけです。

エジプトではエジプト新王国時代となっており、エジプト新王国では専守防衛の為にレヴァント地方にも進出していました。

ただし、エジプトやヒッタイトは過去には大国でしたが、海の民が訪れる頃には、既に全盛期は過ぎていたと考えられています。

海の民とは

海の民は紀元前1200年頃にエジプトを襲撃した9つの集団を指します。

海の民を形成する9つの集団は下記の通りです。

エクウェシュシェルデンチェケルテレシュシェケレシュ
ペレセトルッカデニエンウェシェシュ

これらの民族は古代エジプトの史料(ヒエログリフ)に現れる、海の民を形成する民族となっています。

海の民と言っても一つも民族ではなく、複数の民族が集まった集団だという事が分かるはずです。

エジプト新王国ではメルエンプタハとラメセス3世の時代に、海の民と戦闘を行った記録があります。

メルエンプタハの時代ではリビア勢力の中に海の民の一部が含まれている事が分かっており、ラムセス3世の時代には大規模な戦闘が起きました。

エジプト側の史料

ラムセス3世の葬祭殿と海の民

メディネト・ハブにあるラムセス3世の葬祭殿に、海の民に関する最も重要な記録が残されています。

ラムセス3世の葬祭殿には、エジプト新王国の軍と海の民の戦闘が描かれています。

Wikipediaより)

上記の画像を見る限りでは、陸上戦と海上戦でエジプト軍と海の民が入り乱れて戦っており、何が何だか分からない位の激戦が繰り広げられている様にも見れるはずです。

海の民の軍は戦車(チャリオット)に乗っている者も確認されており、注目されている部分でもあります。

エジプト軍により手を切断された海の民や、捕虜になって海の民も確認されています。

海の民の中には女性や子供もおり、海の民は難民だったとする説もある状態です。

エジプト新王国が側が残した記録でもあり、海の民がエジプト軍に対してやられている記録にもなっています。

治世8年の碑文

ラムセス3世の治世8年の碑文が残されており、海の民に関する重要な記録となっています。

治世8年の碑文には「海の民によりヒッタイト、カルケミシュ、コーデ、アルザワ、アラシヤが破壊された」とあります。

さらに、海の民はエジプトを襲撃しますが、海の民を構成する民族は「ペレセト」「チェケル」「シェケレシュ」「デニエン」「ウェシェシュ」だったとあります。

ヒッタイトは海の民により滅亡したとされてきましたが、エジプト新王国の記録による部分が大きいと言えます。

エジプト側の史料を信用していいのか

海の民の記録はエジプト側の記録に頼る部分が大きいのは事実です。

しかし、エジプト側の記録の全てを信じるわけにはいかないでしょう。

ラムセス3世の記録は「過去の王が残した記録を模倣した」とも考えられています。

さらに言えば、自国にとって都合の悪い記録は残さないのが普通であり、海の民に関する記録はラムセス3世及びエジプト新王国が「その様に言っている」位で添えておいた方が良さそうです。

尚、海の民によりエジプト新王国は弱体化したとも言われていますが、エジプト新王国がレヴァント地域から撤退するのは、ラムセス3世よりも50年程あとの時代であるラムセス6世の時代となります。

エジプト新王国も海の民による被害を被った事だけは確かですが、急激に衰退したわけではないとみる事が出来ます。

海の民は文明の破壊者だったのか

海の民とウガリトの破壊

東地中海において多くの遺跡で紀元前12世紀頃に破壊された痕跡があり、海の民の仕業だと考えられてきました。

海の民によるウガリトの破壊は有名であり、ラス・シャムラ遺跡では多くの矢じりが見つかっています。

こうした事情からウガリトにおいて、戦争が行われていた事は間違いないのでしょう。

さらに、楔形文字の粘土板文書には「海から敵が迫っている」と記録しました。

文字資料でも考古学的にもウガリトで何かしらの戦いが起きた事は確実ですが、ウガリトが海の民と戦ったのか?と考えると、証明する事が出来ていない状態です。

ウガリトが海の民と戦ったと確定してはおらず、別勢力との戦闘だったとの指摘もあります。

海の民とヒッタイトの滅亡

海の民はヒッタイトを滅ぼしてはいなかった

エジプト側の記録であるメディネト・ハブには「ハッティ(ヒッタイト)」、カルケミシュ、コーデ、アルザワ、アラシヤの五地域が海の民により切り取られたとあります。

しかし、近年ではヒッタイトの滅亡は海の民によるものではないとする考えが主流になってきました。

ヒッタイトの首都であるハットゥシャでは放火があった痕跡がありますが、それ以前にヒッタイトの人々はハットゥシャを捨てていたのではないかと考えられています。

ヒッタイトは海の民ではなく、北方のカシュカ族の方が脅威となり、首都のハットゥシャを捨てたのではないかとする見解の方が強くなっている状態です。

ただし、アナトリア半島の沿岸地域に海の民が押し寄せ海岸部から混乱が拡がり、ヒッタイトは滅亡したとする説はあります。

ヒッタイトの最後の王はシュッピルリウマ2世となっていますが、シュッピルリウマ2世の最後もよく分からない状態です。

海の民とカルケミシュ

海の民が滅ぼしたとしている地域にカルケミシュがあります。

カルケミシュはヒッタイトの副王が置かれた場所としても有名です。

近年の研究のより、カルケミシュは海の民により滅ぼされたという事はなく、活動が継続されている事が分かっています。

しかし、エジプト新王国のメディネト・ハブの記録では、カルケミシュも海の民により滅亡した事になっています。

こうした理由から、メディネト・ハブの記録が全て正しいわけではない事も明らかになりました。

海の民とコーデ

海の民により滅ぼされた地域として、コーデがあります。

コーデに関しては、分からない事だらけであり、何処にあったのかも定かではありません。

しかし、一つの説としてシリアの辺りにあったのではないかともされています。

海の民とアルザワ

海の民に滅ぼされたとする国の一つにアルザワがあります。

アルザワはヒッタイトと共に、アナトリア半島にあった国として有名です。

エジプト新王国のメディネト・ハブの記録では、海の民によりアルザワも滅んだ事になっていますが、近年の研究では紀元前1200年の海の民の時代よりも前に、既に国家としてのアルザワは解体されていた事が分かっています。

ただし、メディネト・ハブの言うアルザワはアルザワという国家を指すわけではなく、地域名だったのではないかとする見解もあります。

海の民とアルザワに関しても、不明な点が多いと言えるでしょう。

海の民とアラシヤ

メディネト・ハブに記載されたアラシヤは、キプロス島だとされています。

キプロス島の遺跡を見ると、戦闘があった痕跡がある遺跡もあり、海の民による侵攻があった可能性は否定出来ません。

ただし、アラシヤが壊滅する程の打撃は見られないとする見解も強くある状態です。

それ故に、海の民はアラシヤを滅ぼしたわけではないとする見方も強くなっています。

メディネト・ハブの記録は何故間違っているのか

これまで見て来た事を纏めてみると、メディネト・ハブに記録された程は海の民は破壊尽くした存在でもないという事が分かるはずです。

それではなぜ、メディネト・ハブには海の民を大げさに書いたのか?とする問題があります。

個人的にですが、海の民と戦ったエジプト第20王朝のファラオであるラムセス3世の功績を誇張する為ではないかと感じました。

ヒッタイトに敗れカルケミシュやコーデに敗れた海の民にエジプト軍が勝利したと書いても、ファラオの活躍は薄くなるのではないでしょうか。

ラムセス3世としては国内外に功績をアピールし政治的な求心力を高めたいと考えており、ヒッタイトを滅ぼし各地を滅ぼした強大な敵である海の民を打ち破ったとした方がインパクトが増すはずです。

こうした政治的な配慮からも、メディネト・ハブでは海の民を強大な力を持った集団として描いたのではないでしょうか。

尚、エジプトでは過去にエジプト第19王朝がヒッタイトとカデシュの戦いが行われており、近年の研究では「エジプト軍は良くて引き分け」程度のものだったと考えられています。

しかし、エジプト側の記録ではファラオの大活躍があった事になっており、政治的な配慮をした事が分かっています。

同様にエジプト第20王朝と海の民との戦いでも、ファラオの求心力を高める為に「強大な敵である海の民に打ち勝った」と話を盛ったのではないでしょうか。

海の民と破壊の痕跡

海の民と火災の痕跡

紀元前1200年頃の遺跡で火災の痕跡があると、海の民による放火があったのではないかと考えられがちです。

遺跡の一部で火災の痕跡があった場合ですが、未発掘な部分を含めて遺跡の大部分が火に覆われたのか、発掘した一部だけが火災の痕跡が残ったのか分からない部分も多いと言えます。

実際には小規模な火災であっても、大規模な火災だったと解釈され、海の民の仕業だと考えるケースも多かったわけです。

海の民と破壊の痕跡

紀元前1200年頃の海の民が活動していた時代の遺跡で、破壊された痕跡が見つかっている場合もあります。

ただし、本当に遺跡が海の民により破壊されたのか、分からない部分も多いのが現状です。

マヤ文明では儀礼的に破壊する習慣があった事が分かっています。

マヤのピラミッドでは人為的に破壊された部分があります。

海の民による破壊とされてきた遺跡も近年では、終結儀礼の一つだったのではないかとする可能性も残っています。

海の民による破壊なのか、儀礼による自らの破壊なのかは分からない部分も多いという事です。

海の民と移民説

海の民の正体を考える上で、しばしば登場するのが移民説ではないでしょうか。

エジプト新王国のメディネト・ハブを見ると牛車に乗った女性や子供の姿も描かれています。

こうした事情から海の民は女・子供も共に移動しており、難民(移民)だったのではないかとする説もあるわけです。

海の民の故郷と呼べる地は地震や気候変動による天変地異で住めなくなり、結果として難民となり東地中海に食料を求めてやってきたと見る事が出来ます。

海の民は何処から来たのか

紀元前14世紀の海の民

海の民の全てが紀元前1200年のカタストロフで、片づけられるわけではないとも考えられています。

エジプト新王国が始まったエジプト第18王朝の外交の記録であるアマルナ文書があります。

アマルナ文書はアマルナ遺跡で発見され、紀元前14世紀中頃の周辺国との、外交交渉が記録されている事で注目を集めました。

ルッカ、シェルデン、デニエンなる民族がアマルナ文書に登場しますが、名前が似ている事から海の民ではないかと考えられています。

ルッカはアマルナ文書に登場するルッキであり、アラシヤを攻撃した記録があります。

アマルナ文書にはシャルダナなる民族が登場しており、これが海の民の構成員の一つであるシェルデンだと考えられています。

シェルデンは紀元前13世紀にラメセス2世と戦っており、エジプト軍に組み込まれた記録もあります。

アルマナ文書にはダヌナと呼ばれる民族が登場していますが、これが海の民のデニエンではないかと考えられました。

海の民の民族を特定するのは困難

海の民が何処から来たのかですが、よく言われるのがエーゲ海方面からやってきたというものではないでしょうか。

先にも紹介しましたが、海の民の構成員だとされているのが下記の民族です。

エクウェシュシェルデンチェケルテレシュシェケレシュ
ペレセトルッカデニエンウェシェシュ

海の民は何処からやって来たのか不明とされていますが、シェルデンがサルディーニャ島から来たとするものであり「シェルデン」と「サルディーニャ島の名前が似ている事から、シェルデンはサルディーニャ島から来たと考えられているわけです。

ただし、海の民に加わっていたシェルデンが、エジプト新王国に敗北後にサルディーニャ島に移動したのではないかとする説もあり、どちらが正しいのかは分からない状態です。

シェケレシュがシチリア島から来たのではないかとも考えられています。

さらに、テレシュはイタリア中部の、エトルリア人との関連があるのではないかともされています。

エクウェシュはホメロスの叙事詩に登場するアカイオイであり、デニエンがアナトリア南東部のアダナではないかとも考えられています。

ルッカはアナトリア南西部のリュキアであり、ペレセトは過去にギリシャにいたとされるペラスゴイ人ではないかとされています。

チェケルはクレタ島のザクロスやシェケレシュと同様に、シチリア島の勢力だったのではないかとする説もあります。

ウェシェシュはクレタ島のオアクソスやアナトリア半島南西部のワソス(イアソス)ではないかともされている状態です。

海の民は全てアナトリア半島やシチリア島の勢力ではないかとする説もあります。

他にもメディネト・ハブのレリーフの船の形や海の民の武器や格好から、民族を割り出そうとする試みもされていますが、どれも決定打には欠けていると言えそうです。

それでも、過去の文献に似ている名前が登場しており、海の民を構成する民族は当時から知られていたのではないかとも考えられています。

エジプトの記録から見るその後の海の民

エジプト第20王朝のファラオにして、海の民を撃退したとされるラムセス3世の事を記録された第1ハリス・ハピルスなる資料があります。

第1ハリス・ハピルスの中でラムセス3世が海の民のデニエン、チェケル、ペレセトを破り、シェルデンとウェシェシュを捕虜とし、要塞に住まわせたとあります。

この第1ハリス・ハピルスの記録には、シェルデンとウェシェシュを何処の要塞に住まわせたのかは記録がありません。

しかし、一つの説としてレヴァント南部やシナイ半島だったのではないかともされています。

ウェンアメン航海記にはチェケルの町・ドルに寄港した話があり、チェケルがこの辺りに住んだのではないかとも考えられています。

海の民とペリシテ人

海の民に属するペレセトが東地中海を暴れまわり、エジプト軍に敗れた後にシナイ半島に入ってペリシテ人になったとする説があります。

ペリシテ人は旧約聖書にも登場しており、シナイ半島の辺りから北上を始めイスラエル王国と戦いました。

ペリシテ人の軍には巨漢のゴリアテがおり、イスラエル王国のダビデに敗れたの話は有名でしょう。

海の民とペリシテ人が同一視されるのは、海の民のペレセトとペリシテ人の名前が似ている事に始まります。

さらに、ペリシテ文化の土器が、エーゲ海のミケーネ文明との繋がりを強く、感じさせるというものがあります。

ミケーネ土器とペリシテ土器の類似性が、海の民のペレセトがペリシテ人説を後押ししている状態です。

ただし、近年の研究によりミケーネ土器との類似性が確認されているペリシテ文化は、全体からみれば少ない事も分かってきました。

海の民が現れた紀元前12世紀までには、キプロス島で制作されたミケーネ土器が広く流通した事実も確認されています。

こうした事情から、必ずしも海の民とペリシテ人を結び付ける事は出来ないとも、指摘される様になりました。

アシュドダ土偶もミケーネ土偶と似ており、海の民とペリシテ人の繋がりを後押しする存在になっていました。

しかし、アシュドダ土偶もキプロス島の影響を指摘されており、海の民と結びつける事は出来ないのではないかとも考えられる様になっています。

海の民はエジプトに敗れた後に、シナイ半島やレヴァント地方の南部に入ったとする説は間違いではないかも知れませんが、単純に解釈するのは難しく、実際はもっと複雑だったのではないかと考えられています。

※この記事は有村元春先生の「海の民」の謎に迫るをベースにして作成しました(動画も制作予定)

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