海の国第一王朝は別名として、バビロン第二王朝と呼ばれています。
メソポタミア文明の流れをくむ王朝の一つです。
海の国第一王朝はバビロン第一王朝がヒッタイトにより崩壊した後に、バビロンを支配した事から、バビロン第二王朝と呼ばれています。
海の国第一王朝の時代は、メソポタミア地方の南部にあるバビロニア地方の北部はカッシート人の王朝があり、南部には海の国第一王朝があったのが現状です。
さらに北にはミタンニ王国やアッシリア(当時は弱小)の勢力がいた事になります。
海の国第一王朝はバビロン第二王朝とは呼ばれていますが、メソポタミアを統一した記録もありませんし、バビロニアも統一したわけではありません。
ただし、過去にシュメール人がいたバビロニア南部の大半は領有した話があります。
尚、紀元前1200年のカタストロフで、地中海沿岸の国々を荒らしまわった海の民とは別の民族だと考えられています。
アッカドと海の国
人類で最初の帝国を築いたとされるアッカド人のサルゴンがいますが、サルゴンの口から下記の言葉が述べられた記述が見つかっています。
海の国を三度攻囲せしめよ
上記の言葉を見ると、サルゴンが海の国を征服しようとしていた様に思うかも知れません。
しかし、サルゴンが指す海の国は、現在のバーレーンやサウジアラビア東部のアラビア湾沿岸にあるディムルンなどの国を指し、海の国第一王朝を建てた民族ではないと考えられています。
中には、アラビア湾沿岸にいた民族がメソポタミア地方の南部に移り海の国第一王朝を建国したと言う人もいますが、現在、有力になっているのは、サルゴンのいう「海の国」はディムルンを指すとする説です。
新しい楔形文字などの発見があれば、内容は変わって来るかも知れません。
ただし、海の国第一王朝を建国した民族が、シュメール王朝やアッカド王朝の時代にどこにいたのかははっきりとしません。
バビロン第一王朝の混乱
メソポタミア地方はシュメール人が建国したウル第三王朝崩壊後に群雄割拠状態となりますが、最終的にメソポタミアの地を統一したのがバビロン第一王朝です。
バビロン第一王朝は六代目のハンムラビの時代に大発展を遂げ、メソポタミア地方の大半を領有する事になります。
ハンムラビ王はハンムラビ法典を制定した事で有名な王様でもあります。
しかし、ハンムラビ王が亡くなりサムスイルナの時代になると、反乱が周辺民族に攻められる事になります。
チグリス川の中流域に定住したとも言われるカッシート人がディヤラ川上流からバビロン第一王朝に侵入し、サムスイルナの軍を破った記録もあります。
ただし、サムスイルナの軍は負け続けたわけではなく、ラルサのリムシン2世の反乱は鎮圧し、東方のエラム人の侵攻も撃退した話があります。
こうした情勢の中でバビロニア南部で独立の動きが盛んになり、イルマイルムがバビロニア南部でバビロン第一王朝に対して反旗を翻す事になります。
このイルマイルムが海の国第一王朝を建国する事になるのです。
海の国第一王朝はメソポタミア南部にあり、海上貿易と穀倉地帯の利潤を武器に独立を考えたのでしょう。
イルマイルムの乱
イルマイルムの反乱に対して、バビロン第一王朝のサムスイルナはウルとウルクの城砦を破壊した記録があります。
サムスイルナがウルやウルクなどの都市の城壁を破壊した事を考え、イルマイルムの反乱はメソポタミア地方の南部の全域に及んだとも考えられています。
イルマイルムの反乱はバビロン第一王朝から見れば反乱ですが、イルマイルムから見ればバビロンの圧政から救う大義名分があったのでしょう。
サムスイルナはイルマイルムの反乱を鎮圧出来ず、バビロニア南部を失う事になります。
イルマイルムはニップルの東にあると考えられているシャッラークムを本拠地にしたと考えられています。
バビロン第二王朝の建国
メソポタミア南部を失ったバビロニアの衰退は歯止めが掛からず、サムスイルナの後継者となったアビエシュフも苦心しますが、バビロン第一王朝は衰えていきます。
バビロン第一王朝は完全に勢いを無くし、バビロニア北部はカッシート王国(バビロン第三王朝)が領有し、バビロニア南部は海の国第一王朝(バビロン第一王朝)が勃興する事になります。
バビロン第一王朝はバビロンの周辺だけを領有する小国となり、鉄の民族とも呼ばれるヒッタイトの攻撃により滅亡しています。
ヒッタイトはアナトリア半島の国であり、領土的野心も少なくバビロンを破壊し略奪を行うとアナトリア半島に引き上げる事になります。
ヒッタイトが引き上げた後の空白地となった、バビロンに海の国第一王朝が入る事になります。
海の国第一王朝はバビロンを領有した王朝である事から、バビロン第二王朝と呼ばれたりするわけです。
海の国第一王朝の場所
海の国第一王朝の場所はチグリス川とユーフラテス川の河口付近にあったと考えられています。
メソポタミア南部をほぼ制圧した記録があるので、サルゴンに敗れて捕虜となったウルク第三王朝のルガルザゲシと同じ位の勢力範囲はあったのでしょう。
ただし、海の国第一王朝が領有していた正確な地域は分かってはいません。
海の国第一王朝の本拠地はシャッラークムとなっていますが、先にも述べた様にニップルの東にあったと考えられていて、正確な場所は不明です。
今後の遺跡の発掘などにより解明される可能性はあります。
海の国第一王朝の滅亡
海の国第一王朝の滅亡ははっきりとしていて、1475年にバビロニア北部を領有したカッシート王国の攻撃により滅ぼされています。
カッシートのウラムブリアシュにより、海の国第一王朝は滅亡しました。
ただし、どの様な状況で滅亡したなどは、資料が少なく分かっていない部分が多いです。
しかし、1475年の時点ではバビロニア北部を領有したカッシート人が優勢となり、海の国第一王朝を圧迫していた事は間違いなさそうです。
カッシート王国は海の国第一王朝を滅ぼすと、バビロニアの主となります。
余談ですが、海の国第一王朝を滅ぼしたカッシート王国は36代350年続いたともされ、バビロニアの歴代王朝の中で最長となっています。
海の国第一王朝が滅ぼされると、メソポタミア、エジプト、シリア、アナトリアが含まれるオリエントの地域はエジプト、ミタンニ、カッシート、ヒッタイトの時代に突入する事になります。
尚、海の国第一王朝の後裔とされるシンパル・シバクが紀元前1025年頃に海の国第二王朝を建国する事になります。
海の国第二王朝はバビロンを領有した事もあり、バビロン第五王朝とも呼ばれています。
ただし、海の国第二王朝はわずか3代で幕を閉じ20年で滅亡しました。
余談ですが、新バビロニアを建国したナボポラッサル王は海の国出身だとする説があります。
アッシリアの時代になっても、メソポタミアには海の国と呼ばれる都市が生き残っていたのかも知れません。