名前 | 脇屋義治 |
生没年 | 1323年ー没年不明 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:脇屋義助 配偶者:児島高徳の娘 子:義則、義冬、中澤重清 |
1336年 箱根竹ノ下の戦い | |
年表 | 1352年 武蔵野合戦 |
コメント | 信濃や越後などで活動した記録もある。 |
脇屋義治は脇屋義助の子であり、13歳の時には箱根竹ノ下の戦いに参戦した記録があります。
箱根竹ノ下の戦いでは敵に囲まれ窮地に陥りますが、機転を利かせ脱出しています。
父親の脇屋義助と共に各地を転戦しました。
金ヶ崎城の救援では酒宴を楽しまず皆の心を動かした逸話が残っています。
脇屋義治は越後や信濃でも活動しますが、上杉憲顕が幕府復帰すると情勢は悪化しました。
出羽に逃亡したとも言われていますが、最後は分からない状態です。
脇屋義治の出自
脇屋義治は脇屋義助の子で、太平記によると脇屋義治は建武二年(1335年)に13歳で合戦に参加した記録があります。
これが正しければ、脇屋義治は1322年頃に生まれた事になるでしょう。
系図簒要によると脇屋義治の母親は大江田氏の娘とされていますが、後年に越後の大井田氏が新田氏の為に戦っており、大井田氏の娘ではないかとも考えられています。
後に脇屋義治は越後を拠点に戦っており、大井田氏の娘が母親の可能性も高いともされていますが、本当の所は分からないという他はないでしょう。
尚、脇屋義治は児島高徳の娘を妻とした話もあります。
箱根竹ノ下の戦い
箱根竹ノ下の戦いでは、竹ノ下方面を担当し、脇屋義治は父親の脇屋義助と共に足利尊氏と対峙しました。
戦いとなりますが、両軍が兵を引いた時に、脇屋義治は郎党三騎と共に敵陣に取り残されています。
脇屋義治は身の危険を感じますが、冷静に対応し笠印を投げ捨て、髪を見出し顔を隠して敵に大将首だと悟られない様にしました。
脇屋義助も脇屋義治がいない事に気づき引き返しますが三百の兵が従っています。
この時の脇屋義治は13歳とは思えない程の沈着冷静な姿を見せたと言えるでしょう。
ただし、箱根竹ノ下の戦いは尊良親王と共に戦いますが、大友貞載や塩冶高貞の裏切りにより敗北を喫しています。
箱根竹ノ下の戦いが脇屋義治の初陣の可能性もあり、冷静な判断を見せると共に戦の厳しさを知ったはずです。
式部大夫
足利尊氏が中先代の乱で建武政権から離脱すると、新田氏は後醍醐天皇から重用される事になります。
建武三年(1336年)には、武者所結番の五番頭人に抜擢されました。
五番番衆には楠木正成や高田知方らもいます。
尊卑分脈によると脇屋義治の官位は左馬権頭・従五位上・式部大夫であり、この頃に式部大夫になったと考えられています。
足利尊氏と後醍醐天皇の間で和睦が成立すると、新田義貞や脇屋義助、洞院公賢らは北陸に移りました。
この時に、脇屋義治も北陸で転戦する事になります。
金ヶ崎城への救援
金ヶ崎城の戦いが勃発しますが、落城する前に新田義貞らと共に援軍を呼ぶために城を脱出しています。
斯波高経の調略により、瓜生一族は動揺しており、義鑑房の進言もあり脇屋義治は杣山城に残りました。
太平記に杣山城にいる脇屋義治の逸話が掲載されています。
酒宴を開きますが、脇屋義治は少しも嬉しそうにしませんでした。
義鑑房が理由を訪ねると「金ヶ崎城では恒良親王や一族の者たちが飢餓に苦しんでいるのに、酒宴を楽しむ事ができない」と告げました。
これにより金ヶ崎城の救援が急がれたと言います。
ただし、脇屋義治は金ヶ崎城の後詰には失敗しており、瓜生兄弟が討死しました。
金ヶ崎城の戦いでは兄の新田義顕や尊良親王が亡くなり、恒良親王が捕虜となりました。
この後に新田義貞が逆襲し斯波高経を追い詰めますが、藤島の戦いで事故のような形で世を去る事になります。
脇屋義助が越前南朝の指導者となりますが、形勢は不利となり美濃に移り吉野に戻り後村上天皇に拝謁した後に四国に移りました。
この時に脇屋義治も脇屋義助と共に、四国の伊予に移ったとする説と四国にはいかなかったとする説があります。
脇屋義助が四国に移った事で、四国南朝の勢いが盛んになりますが、脇屋義助は急死し活動は短期間で終わっています。
脇屋義治と児島高徳
脇屋義助の死後に脇屋義治は上野に帰ったとも、伊予に隠れていたとも伝わっています。
ただし、上野では新田氏の影響力が著しく低下しており、居場所は無かったとも考えられています。
1347年には室町幕府により岩松直国が新田氏の惣領となっており、上野での影響力は低下しました。
太平記の二十四巻に児島高徳が脇屋義治を擁して足利尊氏や直義、上杉氏の一族の命を狙った話が掲載されています。
しかし、情報漏洩があり上手くはいきませんでした。
師守記にも五条門坊通りで敵方の武士が討ち取られた話があり、脇屋義治と児島高徳が関わっていたと考えられています。
ただし、師守記には脇屋義治や児島高徳が首謀者だとは書かれていません。
児島高徳や脇屋義治の動きに対し、幕府では山名時氏を丹波に派遣しています。
この時に、脇屋義治と児島高徳は児島にいた様であり、幕府軍の動きに対し挙兵する事も出来ずに船で逃亡しました。
武蔵野合戦
室町幕府内で観応の擾乱が勃発し、足利尊氏が南朝に降伏した事で正平一統が成りました。
観応の擾乱では日本各地で激戦が繰り返され足利直義、高師直が亡くなるなどしています。
観応の擾乱が終わると南朝の後村上天皇は室町幕府を打倒する為に、京都と関東で同時に兵を挙げる計画を立てました。
関東では武蔵野合戦が勃発し、脇屋義治も新田義興、義宗や旧鎌倉幕府の北条時行、直義派の上杉憲顕と共に南朝方として参戦しています。
しかし、武蔵野合戦では一時は鎌倉を制圧するも、最終的に足利尊氏に敗れました。
鎌倉を追われた脇屋義治は新田義興と共に河村城に入りますが、畠山国清の攻勢の前に持ちこたえられず、中川城に移り甲州に向かったとも言われています。
信濃で活動
脇屋義治は、その後は信濃で活動した事が分かっています。
延文元年(1356年)頃に北信濃の国人らを味方につけ戦いました。
さらに、新田義興と共に再度挙兵しようとしたとも言われていますが、新田義興が世を去り計画は頓挫しました。
脇屋義治の最後
脇屋義治は越後に移り新田義宗と行動を共にする事になり、越後守護の宇都宮氏綱との戦いとなります。
こうした中で足利尊氏が亡くなり、足利義詮が後継者になりました。
細川清氏が執事の時代は尚武の気質が強かったわけですが、斯波高経が執事になると旧直義派が一斉に幕府復帰しています。
上野や越後で強い影響力を持つ上杉憲顕も室町幕府に復帰しました。
足利基氏は上杉憲法顕を関東管領とし重用しています。
上杉憲顕の幕府復帰によりパワーバランスが崩れ、一気に北朝有利に傾く事になります。
幕府内では宇都宮氏綱と上杉憲顕の対立もあり、新田義宗や脇屋義治は挙兵しようとしますが、簡単に鎮圧されてしまいました。
この頃には新田氏の影響力は極めて小さくなったと考えられています。
新田義宗が亡くなると、脇屋義治は出羽に移ったとも伝わっています。
しかし、出羽での脇屋義治の活動はよく分かっておらず、この先は脇屋義治の行動を終えなくなります。
新田義宗や脇屋義治に関しては、上野の新田荘の付近で暮らしたとも、四国の伊予に移ったとする伝承もありますが、どれが本当なのか分からない状態です。
それでも、足利義詮の時代か義満の時代に脇屋義治は最後を迎えたと考える事は出来るでしょう。