室町時代

山入与義は佐竹宗家との対立を深めた。

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宮下悠史

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名前山入与義(やまいりともよし)
別名佐竹与義
生没年生年不明ー1422年
時代室町時代
一族父:山入師義 兄弟:言義、小田野自義
子:義郷、祐義、依上宗義
コメント佐竹宗家との対立により佐竹の乱が始まった。

山入与義は山入師義の子であり、常陸の佐竹氏の一族です。

父親の忠義が認められ佐竹氏の庶子家筆頭にもなっています。

宗家の佐竹義盛には男児がおらず後継者不在となり、重臣たちの意向により関東管領・上杉憲定の子である龍保丸(佐竹義人)を婿養子としました。

龍保丸に反発したのが山入与義です。

ここから佐竹の乱と呼ばれる佐竹氏混乱の時代に、突入する事になります。

上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻すと、佐竹宗家は足利持氏を支持しますが、山入与義は上杉禅秀を支持しました。

足利持氏とは一時的に関係が修復しますが、足利持氏が鎌倉の与義邸を急襲した事で最後を迎えています。

佐竹氏宗家の後継者問題

佐竹義盛には娘が二人いましたが、嫡子となる男性がおらず死の前後でも後継者が定まっていませんでした。

佐竹氏重臣の江戸通景や小野崎通綱、小田野自義らは、鎌倉公方の足利満兼に働きかけ、関東管領の山内上杉家の上杉憲定の子である龍保丸を佐竹氏の養子にしようと働き掛けています。

これに反発したのが佐竹氏の庶子家筆頭である山入与義です。

山入与義は稲木義信・長倉義景・額田義亮らと共に反発し、龍保丸は太田城に中々入る事が出来ませんでした。

山入与義が反対した理由は上杉家は藤原氏の貴族出身であり、源氏の佐竹氏にとっては相応しくないとする判断だったのでしょう。

さらに言えば、佐竹氏の男系が絶える事を危惧したのかも知れません。

他にも、山入氏は初代の山入師義が足利尊氏に忠義を尽くし亡くなっており、山入氏こそが後継者にするべきだと考えた可能性もあります。

山入与義が佐竹義盛の弟である佐竹義有を後継者に推した話もあり、はっきりとはしない部分でもあります。

佐竹氏が上杉家から養子を迎え入れる事で、鎌倉府の影響が強くなる事を畏れたなどの説も存在している状態です。

佐竹宗家が関東管領上杉氏から養子を迎え権力が強化されるのを、山入与義が望んでいなかったなど色々と言われています。

様々な説はあれど、山入与義が龍保丸(佐竹義人)の擁立に反対した事だけは間違いないのでしょう。

反対派は那須氏の援助を期待し長倉城に籠りますが、岩松持国の討伐により一旦は降服しています。

これが佐竹氏の乱の始まりでもあり、100年続く事になります。

上杉禅秀の乱と佐竹氏の分裂

応永二十三年(1416年)になると、上杉禅秀が足利満隆を擁立し挙兵しました。

これが上杉禅秀の乱です。

この時に佐竹氏宗家である佐竹義人(義盛)は、鎌倉公方の足利持氏に味方しました。

しかし、山入与義は子の山入祐義と共に上杉禅秀を支持したわけです。

佐竹宗家と庶子家筆頭の山入氏で佐竹氏は、分裂してしまったと言えるでしょう。

上杉禅秀は鎌倉から足利持氏を追い出しますが、最終的には敗れ応永二十四年(1417年)正月に自害しました。

山入氏の危機

鎌倉公方の足利持氏は勝者となりますが、上杉禅秀に味方した者を処罰する事にしました。

佐竹義人にも反持氏派の討伐を命じています。

佐竹義人は稲木義信を攻撃し降し、飯野光隆は瓜連城に入り長倉伊義を降しました。

こうした中で山入与義は応永二十八年に、佐竹義人の擁立に積極的であった山入庶子家の小田野自義を自害に追い込んでいます。

山入与義に額田秀直は同調し、額田城で足利持氏や佐竹義人に反旗を翻しました。

額田秀直は奮戦するも最終的には敗れ城は陥落しています。

山入与義の最後

山入与義も討伐対象になる予定でしたが、室町幕府が山入氏を擁護した事で事なきを得ています。

室町幕府では山入与義の肩を持ち常陸守護にしてはどうかと、鎌倉府に打診しました。

足利持氏は敵対者を次々の処罰しており、こうした強硬姿勢を幕府は問題視したとも言えるでしょう。

足利持氏の方でも佐竹義人と山入与義の和睦を進め、山入与義には鎌倉に屋敷を与えました。

しかし、小栗満重が宇都宮氏や桃井氏などと共謀し、足利持氏への挙兵を企てた事を知ると事態は急変する事になります。

足利持氏は鎌倉比企谷の山入与義の邸宅を急襲し、討ち取ってしまいました。

これにより山入与義は最後を迎えたわけです。

ただし、山入祐義は生きており山入氏の後継者となりました。

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