名前 | 山名兼義 |
生没年 | 生年不明ー1347年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:山名政氏 兄:時氏 |
年表 | 1347年 住吉合戦 |
コメント | 兄を補佐した良く出来た弟 |
山名兼義は南北朝時代に活躍した人物であり、山名時氏の弟でもあります。
山名兼義は兄の山名時氏と共に足利尊氏に従い各地を転戦しました。
山名兼義は兄をよく補佐し、山名氏発展に大きく貢献する事になります。
1347年に楠木正行との間で住吉合戦があり、この戦いで山名勢は惨敗し山名兼義も最後を迎える事になります。
兄の山名時氏が山名氏の礎を築いたと言われていますが、その裏には山名兼義の存在があった事は間違いないでしょう。
足利尊氏に従う
山名兼義は山名時氏の弟として誕生しますが、鎌倉時代の動向はよく分かっていません。
それでも、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、一早く足利尊氏に従った事も分かっています。
山名氏は新田系列でもあり、新田義貞に従う選択肢もあったはずでしたが、母が上杉氏の出身だった事もあり、足利尊氏に従う事にしたのでしょう。
建武元年(1334年)に後醍醐天皇が賀茂社に行幸した際に供奉した尊氏方の人物の中に、山名兼義の名が見えます。
こうした事からも、素早く足利尊氏に接近し従う決断をした事も分かるはずです。
兄を補佐
中先代の乱で足利尊氏が建武政権を離脱すると、山名兼義は兄の山名時氏と共に足利尊氏に従う事となります。
新田義貞・脇屋義助兄弟との箱根竹ノ下の戦いでも、兄の山名時氏と共に奮戦した事が分かっています。
足利尊氏は一時は九州にまで落ち延びますが、逆襲し上洛軍を起こして京都に進撃しました。
近江国伊岐代社に籠った比叡山の山徒成願坊を攻撃する足利軍の中に、山名時氏及び山名兼義もいた事が分かっています。
山名時氏は伯耆守護となり、後には丹波守護も任されていますが、山名兼義の存在が大きかったと考えられています。
豊臣秀吉における豊臣秀長、足利尊氏おける足利直義のような存在が、山名兼義だったのでしょう。
山名兼義の最後
南朝の北畠親房が吉野に戻ると、南朝では主戦派が大勢を占める様になりました。
こうした中で楠木正成の子の楠木正行が1347年に挙兵し、細川顕氏を藤井寺の戦いで破る事になります。
細川顕氏は何とか踏みとどまっており、幕府首脳の足利尊氏や直義は山名時氏を大将として派遣する事になります。
山名軍の中には当然ながら山名兼義も姿もありました。
楠木正行との間で住吉合戦が勃発しますが、楠木勢は強く山名時氏は苦戦し本人までもが合戦の中で負傷しています。
太平記によると楠木氏の和田氏と阿間氏が、山名時氏を討ち取ろうと接近しますが、山名兼義が軍を動かし兄を助けようと動くシーンがあります。
住吉合戦は幕府軍の完敗であり、山名時氏と嫡子の山名師義も負傷する中で、山名兼義は戦死しました。
山名兼義の死を聞いた配下の小林大炊亮は切腹し後を追った話も残っています。
山名兼義は人望の兼ね備えていたのでしょう。
後に山名氏は大発展し足利義満の時代には一族で11カ国の守護を兼ねるなどしており、大勢力となりますが、山名兼義が生きていたならば一族の勢力展開は大きく異なっていたのではないかともされています。
山名兼義に子がいたのかは不明ですが、いたとしても山名兼義の死と共に存在感を無くして行ったのでしょう。