世良親王は後醍醐天皇の二番目の皇子で「二宮」と呼ばれたりもします。
後醍醐天皇には何人も皇子がいましたが、世良親王の母親は西園寺実俊の娘であり名門の出身です。
母親が西園寺家の出身であり後醍醐天皇の皇子の中で最も実家の権勢が強かったのが、世良親王となります。
世良親王は亀山天皇の娘である昭慶門院に可愛がられて育てられました。
後醍醐天皇の子の中で最も早く元服したのが世良親王であり、後醍醐天皇は家柄、能力、人間性を高く評価し後継者として考えていたのではないかともされています。
ただし、世良親王は若くして亡くなってしまい分かっている事も極端に少ない状態です。
名門出身
世良親王の母親は関東申次の西園寺実兼の弟である西園寺実俊の娘です。
ただし、世良親王の母親である西園寺実俊の娘の名前は分かっていません。
関東申次の西園寺家は鎌倉幕府と朝廷の仲介役でもあり、鎌倉幕府とも太いパイプを築いており高い権勢を誇っていました。
世良親王の名前も祖父にあたる後宇多天皇の本名である「世仁」から一字拝領させて貰ったのでしょう。
さらに、後に南朝の実質的な最高権力者となる北畠親房が世良親王の乳父となっています。
北畠親房が世良親王に仕える辺りは、世良親王が如何に周りから期待されていたのかが分かる話でもあります。
兄よりも早い元服
世良親王は後醍醐天皇の子ですが、亀山天皇の皇女である憙子内親王(昭慶門院)により育てられました。
世良親王が昭慶門院に育てられる様になった経緯はよく分かっていません。
世良親王は後醍醐天皇の第二皇子であり元亨4年(1324年)に元服した事が分かっています。
兄に尊良親王がいますが、尊良親王の元服は1326年に元服しており、世良親王は兄よりも先に元服しました。
世良親王が兄の尊良親王よりも先に元服したのは、昭慶門院が存命中に世良親王の加首服を見たいと望んだ為とされています。
尚、昭慶門院は世良親王が元服してから間もなくして亡くなりました。
昭慶門院が亡くなると遺領などは世良親王が継承する事になります。
世良親王が後醍醐天皇の後継者候補だった!?
世良親王は建武の新政の前に若くして亡くなってしまいますが、増鏡によると後醍醐天皇は世良親王に大きな期待を寄せていた話が掲載されています。
後醍醐天皇は世良親王を高く評価し、政務を行う場所に連れて行ったり、議定にも参加させました。
兄の尊良親王よりも後醍醐天皇は弟の世良親王を評価し、大きな期待を寄せていた事も記録されているわけです。
尚、世良親王は家柄がよいだけではなく、人格的にも優れていたとされています。
さらに、世良親王の母親は名門西園寺家の人間であり、後醍醐天皇の皇子の中で母親の実家の権力は世良親王が最も高かった事が分かっています。
家柄という求心力の面では後醍醐天皇の皇子の中では世良親王が最強だったわけです。
こうした事情から、後醍醐天皇は世良親王を後継者にしようとしていたのではないかとも考えられています。
後醍醐天皇は我が子を後継者にする為に、鎌倉幕府打倒に動きますが、当時の後醍醐天皇が後継者にしたかったのが世良親王だともされています。
世良親王の最後
世良親王は1330年に若くして亡くなりました。
元弘の変の直前に世良親王は世を去った事になります。
後醍醐天皇の皇子の中で戦力として仕える年齢に達していた皇子は尊良親王、世良親王、護良親王、宗良親王がいました。
こうした中で世良親王を失った後醍醐天皇の誤算もあったはずです。
世良親王は建武の新政を見ずに終わりましたが、世良親王が生き続けていたならば、能力と人格、家柄の良さで後醍醐天皇の後継者になっていたのではないかとも考えられています。
世良親王が生き続けていたら後村上天皇は即位できなかったのかも知れません。
尚、世良親王の乳父である北畠親房は世良親王が亡くなると出家し宗玄と名乗りました。
因みに、世良親王のお墓は臨川寺にあります。