結城親光は白河結城氏の人物であり、父親が結城宗広であり、兄弟には結城親朝がいます。
結城親光は後醍醐天皇の寵臣となっており、楠木正成、名和長年、千種忠顕と共に三木一草の一人に数えられています。
足利尊氏は建武政権に反旗を翻しますが、新田義貞の軍を箱根竹ノ下の戦いで破った足利尊氏の勢いは絶大でした。
ここで結城親朝は足利尊氏を暗殺しようとしますが果たせず、代わりに大友貞載を道連れに世を去っています。
尚、三木一草の中で最初の犠牲者となったのが結城親光です。
鎌倉幕府の滅亡
太平記の6巻によると、結城親光は楠木正成が籠城する赤坂・千早城を攻める鎌倉幕府の軍勢の中にいた事が分かっています。
通説では播磨の赤松円心の説得により、結城親光は後醍醐天皇方へ寝返ったとされています。
正確には何処のタイミングなのかは不明ですが、結城親光は後醍醐天皇側へ寝返った事だけは事実なのでしょう。
太平記の9巻によれば千種忠顕や赤松円心と共に山崎において、三百騎を率いて鎌倉幕府の軍と戦った事になっています。
この時の幕府軍の総大将は名越高家であり、彼はこの時に討死しました。
名越高家の戦死を聞いた足利尊氏が後醍醐方に寝返り、結城親光らと共に六波羅探題を攻撃させ陥落させています。
後醍醐天皇は名和長年と共に船上山にいましたが、京都に戻る事になり、結城親光は共奉を務めました。
建武政権での役割
建武の新政が始まりますが、結城親光は雑訴決断所の四番の奉行人に名を連ねました。
雑訴決断所の四番手には高師泰や佐々木時信らも名を連ねています。
後に雑訴決断所は8番制となりますが、この時には6番組の武将人として結城親光の名があります。
ただし、この時の結城親光にどれだけの法律に関する知識があったのかは不明であり、後醍醐天皇の多くの武士を政治に参加させようとした結果でもあるのでしょう。
尚、二条河原落書には「能力不明の者達を、もるる人なき決断所」なる皮肉を述べられたりもしています。
さらに、建武政権で恩賞方が設置されると、一番の奉行人となっています。
建武政権の軍事や警察機構として窪所や武者所がありますが、ここでも結城親光は高師直らと共に任命されました。
後醍醐天皇は結城親光に治安維持など、軍事に関わる事に期待したのでしょう。
他にも、検非違使、左衛門尉などの官職も与えられています。
結城親光は後醍醐天皇の厚遇ぶりを感謝し、生涯の君主として忠誠を誓ったとみる事も出来ます。
尚、結城親光は「太田大夫判官親光」の名で呼ばれる事もありますが、後醍醐天皇が恩賞で武蔵国太田荘を白河結城氏に恩賞として与えた為だとも考えられています。
護良親王及び西園寺公宗を捕らえる
護良親王は倒幕の大功労者でしたが、配下の武士たちの制御が上手くいかず、足利尊氏とも対立しました。
護良親王は征夷大将軍になっていましたが、後醍醐天皇は解任し呼び出しています。
後醍醐天皇は護良親王を捕らえる気でいましたが、この時に実行部隊になったのが結城親光と名和長年となります。
さらに、西園寺公宗と北条泰家による後醍醐天皇暗殺計画が露見しました。
北条泰家は行方が分からなくなっていましたが、西園寺公宗は捕らえられる事になります。
太平記によると後醍醐天皇は中院定平に結城親光と名和長年を付けて、二千余騎を使い西園寺公宗を捕虜としました。
この後に、西園寺家の家司である三善文衡を家に監禁し暴力を使い、白状する様に強要した話が残っています。
尚、西園寺公宗は名和長年の勘違いで、最後を迎えたともされています。
結城親光の最後
足利尊氏の脅威
建武政権に対する旧鎌倉幕府勢力の反乱が勃発する中で、北条時行による中先代の乱が発生しました。
足利尊氏が後醍醐天皇に無断で兵を関東に向けますが、結城親光は尊氏の軍に加わらず都に残っています。
結城親光は後醍醐天皇がいる京都に残ったわけです。
足利尊氏は中先代の乱を鎮圧すると建武政権から離脱し、新田義貞を箱根竹ノ下の戦いで破り、圧倒的な大軍で京都に向かって進撃してきました。
太平記では後醍醐天皇は近江の坂本に行こうとしたり、比叡山に入ろうとしますが、結城親光は「足利尊氏を討たないと、後醍醐天皇の世は来ない」と判断し、都に残る事になります。
太平記の結城親光の最後
太平記では結城親光は大友貞載を通して、足利尊氏に降伏の意を伝えました。
足利尊氏は結城親光が本心で降伏するのかを疑問に思い、大友貞載を遣わしました。
大友貞載に会った大友貞載は「降参の法」に従い武器などを捨てる様に強要しています。
結城親光は足利尊氏が自分が暗殺を狙っている事を悟ったと考え、太刀を抜き大友貞載に討ちかかりました。
大友貞載は馬から切り落とされてしまい最後を迎えています。
この時に寡兵の結城親光の配下の者達は、三百の大友兵と戦う事になります。
結城親光は大友貞載は殺害しましたが、家来の者達と戦い命を落とし最後を迎えました。
これが太平記における結城親光の最後となります。
梅松論の結城親光の最後
梅松論の結城親光の最後も大体が太平記と同じです。
梅松論では結城親光が後醍醐天皇に拝謁した後に、大友貞載に降伏の意を伝えました。
大友貞載は足利尊氏の元に向かう途中で、結城親光に「降参の法」を行う様に要求しました。
結城親光は大友貞載を斬りつけますが、大友貞載は負傷しながらも結城親光の首を足利尊氏に届けています。
梅松論では大友貞載を忠臣として描いている事が分かるはずです。
梅松論では英雄は結城親光ではなく、大友貞載になっているのでしょう。
結城親光の最後について
史実でも結城親光が、この頃に亡くなったのは間違いないとされています。
ただし、大友貞載との間にどの様な事があったのかの詳細はよく分かりません。
尚、北畠親房は結城宗広への手紙において、結城親光の忠節を称賛しています。
当時から結城親光が忠臣だと考えられていたのでしょう。
結城親光が大友貞載の命を狙ったのは、箱根竹ノ下の戦いで脇屋義助の配下にいた大友貞載が寝返った事で勝敗が決したともされており、結城親光は大友貞載を恨んでいたともされています。
因みに、結城親光の足利尊氏暗殺計画の裏には、後醍醐天皇がおり、策謀を伝授したのではないかとする説も存在します。
それでも、主君の為に命を捨て暗殺者になるのは、史記の豫譲を彷彿とさせる部分もあると感じました。