結城宗広が亡くなると、結城親朝が継者となりました。
常陸合戦が勃発すると、北畠親房は再三に渡り出兵要請しますが、結城親朝は動きませんでした。
こうしている間に南朝勢は不利となって行きますが、結城親朝は最後まで動かず北朝に鞍替えしています。
結城親朝の父の結城宗広や兄弟の結城親光は、南朝に忠義を尽くし後醍醐天皇の為に命を掛けましたが、結城親朝は北朝に鞍替えし生き残りを図ったとみる事が出来るはずです。
尚、父親の結城宗広の得た所領は結城顕朝に譲られ、結城親朝の所領は小峰朝常に譲与されています。
小峰朝常から小峰氏は始まりました。
結城親朝は松井優征先生が描く逃げ上手の若君にも登場していますが、父親の結城宗広のインパクトが強すぎて影が薄い存在にもなっています。
常陸合戦
結城親朝と北畠親房
結城宗広の策で後醍醐天皇は大船団を組織し、各地に南朝の皇子や重臣たちを地方に派遣しました。
大船団の多くは自然災害で壊滅しますが、北畠親房が常陸まで辿り着き小田治久に迎え入れられています。
結城宗広は最後を迎える時に、後継者の結城親朝に「朝敵の首をとり私の墓の前に並べよ」と遺言しており、バリバリの南朝派でした。
こうした事情から北畠親房も結城親朝には大きな期待を寄せていたわけです。
北畠親房は結城親朝に期待し多くの書状を出した事が分かっています。
南朝として戦う
春日顕国も常陸に入り周辺の勢力に対し優勢に戦いを進めました。
常陸合戦の序盤戦は結城親朝も南朝の武将として参戦しています。
北畠親房は常陸合戦の初めの頃は、結城親朝に常陸近辺の静謐を望んでいましたが、戦況が変わるに連れて自ら兵を率いて援軍としてくる事を望みました。
北畠親房は東国の武士たちを南朝に味方させる為に、官位を与えています。
延元四年(1339年)には結城親朝の三男の結城朝胤を左兵衛尉に推挙した事が分かっています。
1340年の正月に、結城親朝は黒栗毛の馬一頭を北畠親房に送るなどしました。
北畠親房も結城親朝に小山朝氏を倒せば所領を没収し、陸奥国菊田荘(福島県いわき市)を親朝に預け置くとしています。
北畠親房は広橋経泰の情勢なども伝え、結城親朝に積極的に出兵を促しますが、結城親朝は白河近辺に兵を出しても、それ以上に兵を進めようとはしませんでした。
室町幕府の方では奥州総大将の石塔義房や、東国に派遣された高師冬らを中心に常陸合戦を戦う事になります。
白河結城氏と伊達氏の所領問題
伊達行朝は北畠顕家の配下として戦いますが、石津の戦いで敗れ北畠親房と共に奥州に戻ってきました。
過去に伊達氏は高野郡を恩賞として貰いますが、白河結城氏が高野郡を占拠していたわけです。
伊達行朝からみれば、結城親朝が押領をしていた事になり、これが問題となります。
この時に伊達氏が綸旨や国宣を持っていた事は北畠親房も認めており、伊達行朝と結城親朝の間で所領問題が発生した事になります。
北畠親房が板挟みとなり話し合いを行い所領の交換により解決を望みました。
白河結城氏と伊達氏の所領問題は伊達氏が渋々と折れて、所領を交換した話が残っています。
官途を要求
南朝では北畠親房の子の北畠顕信も奥州入りし日和山城に入りました。
結城親朝の元には北畠顕信からも軍勢催促状が届く事になります。
北奥州では南部政長の活躍もあり、南朝が優勢に戦いを進めていました。
南奥羽は高師冬を相手に膠着状態となっており、常陸の北畠親房は結城親朝に出兵を促しました。
しかし、結城親朝は動かず官途を要求しています。
常陸合戦の最中に結城親朝は大蔵少輔から大蔵権大輔となり、さらに大蔵大輔となり、修理権大夫にまでなっています。
結城親朝は北畠親房の足元を見ていたのか、官途の要求をし続けた結果として昇進を続けました。
北畠親房としては出兵せず官途を望む結城親朝に不満ではありましたが、結城親朝に裏切られても困り、背に腹は代えられず要求を呑み続ける事になります。
結城親朝は嫡子の結城顕朝を弾正小弼にする様に要求した時も、北畠親房は嫌がりましたが、最終的には推挙しています。
当時の武士は官位を得る事を非常に名誉な事だと考えており、所領と並ぶ重要項目の一つでもありました。
こうした中で吉野にいる後村上天皇の側近たちと、北畠親房の関係もぎくしゃくしてくる事になります。
近衛経忠、小山朝郷、新田義興なども不穏な動きを見せ、さらには常陸にいた北畠親房と興良親王の間も決裂して行く事になります。
結城親朝が白河から動かなかった理由
結城親朝は動かず、南朝では小田治久までもが北朝に鞍替えしてしまいました。
北畠親房は小田氏が室町幕府の傘下になってしまった事で、小田城を離れ関宗祐の関城に入りました。
春日顕国は大宝城に入っています。
北畠親房は再三に渡り、結城親朝の南下を望みますが、結城親朝は動かなかったわけです。
結城親朝が動かなかった理由ですが、白河から離れて南下し高師冬の軍を破るには、道中で佐竹氏、大掾氏ら常陸の北朝勢力がいました。
さらには、下野の茂木氏、下総結城氏、宇都宮氏、小山氏の動向は不鮮明であり、味方であるはずの伊達氏とも所領問題をした仲でもあったわけです。
白河の近辺にも北朝に味方した石川氏の勢力がいました。
こうした白河結城氏の状況を見ると、結城親朝が南下しても、北畠親房がいた小田城や関城まで到達するのは難しかったと考えられます。
実際に常陸合戦が始まった当初は村松城で戦闘を行うなどしていましたが、時間が立てばたつほど北朝が有利となり、結城親朝は動けなくなったと考える事が出来ます。
苦しむ南朝
北奥では北畠顕信が多賀国府の奪還を企てており、激しい戦闘に入り、こちらでも結城親朝に援軍要請をしています。
南奥の北畠親房も苦しくなっており、結城親朝に援軍要請をしますが、結城親朝は「砂金十五両」を送っただけでした。
春日顕国も尊氏の母親である上杉清子が亡くなった事や、美濃の土岐頼遠が光厳上皇に狼藉を働き誅殺された事を告げ「聖運」があるとし、援軍要請しますが、結城親朝を動かすには至らなかったわけです。
結城親朝は南朝の旗を降ろしてはいませんでしたが、軍隊の支援をする事が出来なかったわけです。
足利尊氏の誘い
常陸合戦で南朝はジリ貧となりますが、ここで足利尊氏が結城親朝と結城顕朝に「味方をすれば建武二年(1335年)以前の知行地を安堵する」と告げてきました。
足利尊氏は奥州総大将である石塔義房を通さずに、結城親朝にコンタクトを取ったわけです。
この時には、南朝に属していた武士も続々と北朝に鞍替えしており、結城親朝の心を揺さぶる事になります。
関城の北畠親房は結城親朝に援軍を求め続ける事になり、真壁城の城主である真壁幹重までもが、北畠親朝に援軍を求める様になっていました。
春日顕国も幕府軍の兵士を大量に討ち取ったとし、援軍を要請していますが、結城親朝は動かなかったわけです。
北畠親房の結城親朝への書状は80通ほどが見つかっていますが、後半になるほど長文になる事も分かっています。
北畠親房としては結城親朝が最期の希望でもあったのでしょう。
上総国守護・結城親朝
北畠親房は結城宗広の忠義を持ち出し泣き落としに掛かりますが、結城親朝の心は幕府に向かう事になります。
結城親朝は遂に北朝に帰順しました。
北畠親房は結城親朝を上総国守護に任命しますが、意味を成さなかったわけです。
結城親朝は白河結城氏の惣領として、名誉よりも家を守る事を選択した結果なのでしょう。
石塔義元の康永二年(1343年)11月の書状によれば、関城や大宝城の凶徒が没落したとあり、常陸合戦は室町幕府勢力の勝利として終わりました。
建武二年以来の知行地
常陸合戦が終わると結城親朝は北朝に降っており、北畠親房は吉野に戻り、北畠顕信は北奥羽に退く事になります。
室町幕府の奥州総大将の石塔義房は解任され、新たに奥州管領として吉良貞家と畠山国氏が選ばれました。
結城親朝が足利尊氏と約束した「建武二年以来の知行地」の安堵は全く受けられなかった話があります。
吉良貞家と畠山国氏が結城親朝に与えたのは陸奥国白河荘、岩瀬郡、小野保の検断奉行だけであり、安積郡は保留となり、思った様に所領を得る事が出来ませんでした。
結城親朝としては、不満が残る結果となった事でしょう。
結城親朝の最後
南奥羽では南朝の拠点として霊山、宇津峰、伊達郡藤田城が残っていました。
1347年頃に室町幕府では南朝方の城を落す為の軍を出しますが、この時に白河結城氏の軍を率いたのは結城顕朝だったわけです。
この戦いで結城顕朝は奮戦し安堵を得るための上申書を出しますが、この中に結城親朝が病気とする言葉が入っています。
1347年の段階では結城親朝は体調が優れず、子の顕朝が兵を率いる事になったのでしょう。
結城顕朝による愁訴が提出されると、奥州管領の吉良貞家、畠山国氏は軍忠を認め連署した推挙状を幕府執事の高師直に挙げています。
しかし、結城親朝や顕朝の願いは叶わず「建武二年以来の知行地」は認められなかったと見られています。
結城親朝は「建武二年以来の知行地」を安堵される事無く、世を去ったと考えらえています。
結城親朝が亡くなると、白河結城氏の後継者は子の結城顕朝となりました。
父親の結城宗広の所領は既に結城顕朝に譲与されており、結城親朝の所領は結城朝常に譲与しています。
結城朝常の子孫は白河結城氏の庶子家となり、小峰氏として本家に多大な影響力を及ぼす事になります。