熊徇は史記にも名前が登場し西周時代に楚の君主となった人物です。
時代的には周の宣王の時代の楚の君主だと言えます。
熊徇の父親は熊厳であり、兄に熊霜、仲雪、叔堪がおり、父親の熊厳が亡くなると兄の熊霜が後継者になりました。
熊霜が亡くなると兄弟の間で後継者争いが勃発し、これを制したのが熊徇です。
史記などを見ても熊徇の記述は極めて少ないわけですが、国語の鄭語の中で伯陽は熊徇を聡明協和の者だと高く評価しました。
今回は西周王朝の時代の楚の君主である熊徇を解説します。
後継者争いを制す
熊徇の父親である熊厳が紀元前828年頃に亡くなり、兄の熊霜が後継者になりました。
しかし、熊霜は楚の君主になってから、6年ほどで没しています。
この時に仲雪、叔堪、熊徇の三兄弟の間で後継者問題が勃発したわけです。
国君の位を三兄弟で争ったわけですが、史記では仲雪が亡くなり、叔堪が逃亡し熊徇が楚の君主になった記録位しかありません。
これでは、熊徇がどの様にして後継者争いに勝利したのか非常に分かりにくいと言えるでしょう。
楚の後継者争いに関しては国語の鄭語の中で、伯陽が鄭の桓公に話した内容に記述があります。
国語では叔堪(叔熊)は濮(漢水の南)に逃亡し蛮族になったとあり、叔堪は不穏な空気を察知し一早く逃亡してしまったのでしょう。
後継者争いは仲雪と熊徇の戦いとなり、仲雪が戦いに敗れて亡くなり熊徇が楚の国君になります。
紀元前821年頃に熊徇が楚の君主になったと考えられています。
国語によれば楚の後継者は熊徇となりますが、ここで蓮氏が叔熊を擁立しようとしたとあります。
しかし、災禍があり蓮氏は叔熊を擁立できなかったとあるわけです。
叔熊自身も楚の君主になろうとせず、連氏も熊徇陣営の妨害もあり事は上手くは行かなかったのでしょう。
史記や国語の記述は粗く詳細は不明ですが、楚の後継者争いを制したのが熊徇だった事は間違いなさそうです。
尚、史記によれば熊徇の時代の出来事として、熊徇の16年に鄭の桓公が初めて鄭に封じられたとあります。
ここでいう鄭は春秋戦国時代にあった鄭とは別の場所であり、王畿にあった邦君としての鄭を指すのでしょう。
熊徇は即位後22年で亡くなり、熊咢が楚の君主として立ったと記録されています。
熊徇は紀元前800年頃に亡くなったと考えられています。
聡明協和な人物
先に述べた様に国語の鄭語に熊徇にまつわる話があります。
鄭語では周の幽王の時代に司徒になった鄭の桓公が西周王朝が危機的状況にある事を察知し、太子伯(伯陽)に相談しました。
ここで伯陽は鄭の桓公に虢と鄶が割拠する地域に民、家族、財産を預ける様に進言しました。
鄭の桓公は伯陽の言葉を理解しましたが、洛陽の南に拠るのはどうかと訪ねると、伯陽は楚の熊徇が後継者争いを制した事を述べています。
伯陽は熊徇に関しては、次の様に述べました。
※国語 鄭語より
天は熊徇に心を開き祝福しています。
熊徇は非常に聡明協和な人物であり、その徳は先王を上回っています。
私は天が祝福する者は十世の孫まで廃れないと聞いております。
熊徇の子孫は必ずや国土を拡げますから、近づいてはなりません。
これを見ると伯陽が熊徇を聡明協和な人物だと高く評価している事が分かるはずです。
鄭の桓公と伯陽の話は周の幽王の治世であり、楚では熊徇の孫の若敖の時代だった事でしょう。
伯陽の予言は的中し、楚の武王の時代に王号を称し、熊徇から数えて10代後の子孫は楚の成王となります。
楚の成王の時代までには楚は南方の最大勢力となっており、楚の成王は重耳を晋に入れようとしたりもしています。
伯陽は熊徇の徳により楚が興隆したと考えていた様にも見受けられるわけです。
先代:熊厳 | 次代:熊咢 |