古代日本 古墳時代

三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡なのか分かりやすく解説

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宮下悠史

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黒塚古墳

名前三角縁神獣鏡
読み方さんかくぶちしんじゅうきょう
時代古墳時代
コメント魏から卑弥呼に下賜された銅鏡だとする説がある

三角縁神獣鏡は古墳から出土された鏡であり、古墳時代の代表的な遺物になっています。

魏志倭人伝邪馬台国卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡を下賜された記述があり、三角縁神獣鏡なのではないかとも考えられています。

三角縁神獣鏡は九州から東北まで広い地域で見つかっており、特に大和で多く発見されている事から、邪馬台国近畿説の有力な手掛かりとなっている状態です。

三角縁神獣鏡に魏の年号が書かれたりも出土しており、魏から下賜された鏡に違いないと考える人も多いと言えるでしょう。

しかし、中国の方で三角縁神獣鏡が1面も見つかっていない話もあり、三角縁神獣鏡は中国製ではなく日本製だったとも考えられています。

今回は三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡なのか中心に解説します。

三角縁神獣鏡の名前の由来

三角縁神獣鏡ですが、難しそうな名前だという印象が先行している様な気がしてなりません。

三角縁神獣鏡の名前の由来ですが「鏡の縁が三角」になっており、鏡には中国の神仙である西王母や霊獣が描かれたりもしていて、それらを全部合わせると三角縁神獣鏡となるわけです。

分かりやすく言えば「縁が三角で神や獣の絵が入った鏡」という事になります。

尚、三角縁神獣鏡に描かれた神仙や霊獣は一体とは限らず三角縁二神三獣鏡となっていたりします。

三角縁二神三獣鏡であれば、三角の縁に二体の神と三体の獣が描かれている事になるでしょう。

三角縁神獣鏡の特徴

三角縁神獣鏡は直径が22センチから23センチ程あり一般の中国鏡と比べるとサイズが大きいのが特徴です。

三角縁神獣鏡の大きさも大体が一致しています。

さらに、縁を三角にして厚みを増している分だけ重量感もある事になるでしょう。

三角縁神獣鏡は一つの古墳から大量に出土する場合もあり、三角縁神獣鏡と関係が深い三角縁盤竜鏡も含めれば、奈良県の黒塚古墳からは33面、京都の椿井大塚山古墳からは32面が出土しています。

三角縁神獣鏡は一つの古墳から10面を超える例も少なくないはないわけです。

三角縁神獣鏡の劣化版とも言える仿製三角縁神獣鏡もあり、こちらは中国の三角縁神獣鏡を真似て日本で製造されたと考えられてきました。

後述しますが、最近の研究では三角縁神獣鏡と仿製三角縁神獣鏡は同じ地域で作られたのではないかと考えられる様になってきています。

尚、三角縁神獣鏡は大きさと重さを重視しており、鏡の本来の用途とは外れた所にあり、中国鏡とは異なるのも特徴と言えるでしょう。

三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だとされる理由

卑弥呼は魏から銅鏡百枚を下賜される

238年に魏の司馬懿遼東公孫氏を滅ぼすと、卑弥呼はすかさず大夫の難升米と都市牛利を魏に派遣しました。

三国志の魏の皇帝である曹叡もしくは曹芳は、難升米や都市牛利の功績を称え卑弥呼へは下賜品を与える事になります。

下賜品の目録の中に、次の一文があります。

※正史三国志 東夷伝(魏志倭人伝)より

錦三匹、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠五十斤を下賜する

上記は下賜品の目録の一部ですが、魏の皇帝は銅鏡100枚を卑弥呼に与えた事が分かるはずです。

魏の皇帝が卑弥呼へ与えた銅鏡こそが、三角縁神獣鏡だと考えられています。

魏の皇帝が発行した詔などは改編を加えないのが普通であり、陳寿は正史三国志を制作するにあたって、詔を直接見て書いたとも考えられており、三国志の魏が邪馬台国の卑弥呼に銅鏡を贈った事は間違いないでしょう。

ただし、魏志倭人伝には銅鏡百枚とは書かれていますが、どの様な銅鏡なのかは書かれておらず、三角縁神獣鏡なのかは分からない部分でもあります。

銅鏡の数が合わない問題

魏志倭人伝には魏から邪馬台国卑弥呼に銅鏡百枚を贈った事になっていますが、日本国内で発見されている三角縁神獣鏡の数は600近くあります。

卑弥呼が下賜された銅鏡100枚に対し、三角縁神獣鏡の数が600枚では数が合わない事になるはずです。

ただし、魏では240年に梯儁を派遣し、卑弥呼に倭王の位を仮授するだけではなく、刀や鏡などを下賜した記述があります。

この鏡も三角縁神獣鏡であれば、三角縁神獣鏡の数はさらに増える事になります。

さらに、卑弥呼は伊聲耆や掖邪狗らを魏に派遣し朝貢しており、この時の返礼品が書かれていませんが、ここでも鏡を賜わった可能性もあるはずです。

その後に卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼が戦争になると、魏の張政が調停を行っており、邪馬台国と魏の関係は良好だった事が分かります。

卑弥呼は247年に亡くなりますが、魏が西晋に代わると倭の女王(台与??)が西晋へ朝貢を行いました。

この時も西晋が何かしらの返礼品があった可能性があり、西晋から三角縁神獣鏡を下賜された可能性もあるでしょう。

266年から倭国が中華王朝への朝貢を中断しており、空白の150年に突入し、朝貢が再開されるのは5世紀前半の倭の五王の時代に入ってからとなります。

記録がないだけで倭国が中華王朝へ朝貢を行っていたとしたら、三角縁神獣鏡の数が100枚を超えていても問題はないはずです。

ただし、魏から下賜された三角縁神獣鏡が全て発見されるとは思えず、まだまだ古墳の中に眠っている可能性はあり、それらを考慮すると、かなりの枚数が魏から賜わった事になります。

三角縁神獣鏡同笵鏡論

三角縁神獣鏡の銘文や文様に対しては、戦前の段階から研究が為されていました。

三角縁神獣鏡を見ると景初三年(239年)や正始元年(240年)の三国志の魏の年号銘が入ったものも存在しています。

邪馬台国近畿説や大和説では三角縁神獣鏡の魏の年号から、多くの方が支持している状態です。

尚、大和以外の地でも三角縁神獣鏡は見つかっており、邪馬台国近畿説などでは魏から下賜された銅鏡を各地の豪族に配ったともされています。

邪馬台国近畿説では邪馬台国と大和王権の繋がりがあると考えられていますが、大和王権への服属の印として三角縁神獣鏡を下賜したとも考えられているわけです。

これがの同笵鏡説であり、別名として三角縁神獣鏡同笵鏡論とも呼ばれています。

ただし、魏の銘文が書かれてあるからと、中国で1面も発見されていない三角縁神獣鏡が本当に魏鏡なのかとする声も多くあります。

盤龍鏡の中には景初四年と記述されたものがあり、魏の年号では景初三年で正始元年に改元されており、景初四年は存在しない事から議論を呼びました。

景初四年に関しては、盤龍鏡を制作した者が改元を知らずに、造ってしまったのではないかとも考えられています。

三角縁神獣鏡は中国では出土されない

日本では何百面と出土している三角縁神獣鏡ですが、中国では出土されない問題があります。

これが三角縁神獣鏡の最大の問題と言っても過言ではないでしょう。

日本で何百面も出ているのに、中国では出土されない事を考えると本当に三国志の魏が卑弥呼に下賜した銅鏡なのかと疑っても見たくもなるはずです。

こうした中で「三角縁神獣鏡が本場の中国で発見されないのは、倭国の為に特鋳したものだから」とする見解もあります。

つまり、魏の方で倭国の為に特別に造ったのが、三角縁神獣鏡であり、全て倭国に渡したわけだから、中国で出土しないのは当然だとする説です。

三角縁神獣鏡が倭国の特鋳品だと言うのは、当時の人で無ければ確認のしようがなく、想像の域を出ないとも言えるでしょう。

しかし、三角縁神獣鏡の銘文に魏の年号が入っていた事で、大きく後押しされた説でもあります。

ただし、三角縁神獣鏡や仿製三角縁神獣鏡の編年が出来上がって来ると、特鋳説は不利になっていきます。

仿製三角縁神獣鏡と編年

先に三角縁神獣鏡の劣化版である仿製三角縁神獣鏡が存在するというお話をしました。

仿製三角縁神獣鏡は三角縁神獣鏡に比べると、文様も退化し鋳造技術や銅なども劣っています。

仿製三角縁神獣鏡は三角縁神獣鏡の出来損ないの様な鏡だとも言えるでしょう。

三角縁神獣鏡に比べて仿製三角縁神獣鏡の出来が悪い事から、過去には三角縁神獣鏡は中国で作られ、仿製三角縁神獣鏡は日本で真似して造ったが上手く出来なかったと解釈されてきたわけです。

しかし、近年では仿製三角縁神獣鏡の断面形や鏡の鈕孔に着目される様になります。

三角縁神獣鏡の断面が古い者であれば外側の外区と内側の内区の厚さの差が顕著で段差が大きく、新しいものになって行くに連れて差が無くなって行く事が分かりました。

岡山大学の新納泉氏は銘文を施した銘帯や文様帯の分析を行い第一段階から第四段階まであるとし、仿製三角縁神獣鏡は第五段階に位置付けています。

新納泉氏の製作工程は三系統に分かれ、それぞれの系統ごとに文様が退化していくとしました。

こうした三角縁神獣鏡の編年を考えると、10年ほどの短い期間で誕生したわけではなく、少なくとも半世紀程度のスパンがあったともされているわけです。

それと同時に、魏の方で倭国用に三角縁神獣鏡を造ったとされる特鋳説も否定する要因にもなってきました。

半世紀ものスパンで仿製三角縁神獣鏡が造られたとなれば、継続的に造られ、倭国に下賜する為に特別に造ったとは考えられない事になります。

尚、三角縁神獣鏡に関しては高句麗や呉の銅鏡などから、呉の工人が日本にやってきて三角縁神獣鏡を製造した説などもあります。

三角縁神獣鏡は量産鏡だった

三角縁神獣鏡は4世紀の古墳から出土するわけですが、卑弥呼が魏から鏡を下賜されたのは238年もしくは239年頃であり、古墳時代とかなり離れている事になります。

4世紀の古墳から三角縁神獣鏡が出て来るのであれば、卑弥呼の時代から数世代が経過した後に、漸く魏から下賜された銅鏡が埋められた事になるはずです。

数世代が経過してから漸く副葬品となるのも変な話でもあります。

三角縁神獣鏡には魏の年号が入ってはいますが、古墳時代の近畿に何故か邪馬台国の記憶が留まっていると解釈した方がよいでしょう。

職人が魏の銅鏡っぽくする為に、年号を入れた可能性もある様に感じています。

さらに言えば、三角縁神獣鏡は一つの古墳から数十面も出土する様に、決して貴重な副葬遺物ではなく、腕輪型石製品などの様に多量副葬品としての性格があります。

魏から下賜される様な貴重な鏡が数多く伝世され、副葬品の主体になるのも変だと言わざるを得ないはずです。

尚、黒塚古墳からは棺の部分から画文帯神獣鏡が1面出土しており、被葬者の頭の部分にある事が分かりました。

下記は黒塚古墳(天理市)の画文帯神獣鏡の画像ですが、棺内と書いてある事が分かるはずです。

黒塚古墳の画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡

黒塚古墳では棺の周りに多くの三角縁神獣鏡が設置されていました。

三角縁神獣鏡の鏡の部分は全て内側に向けられており、棺の中には画文帯神獣鏡があり、これを見ても重視されているのは画文帯神獣鏡の方であり、三角縁神獣鏡ではないでしょう。

鏡が棺の方に向けられているのは、棺を封じ込める意味があるのではないかと考えられています。

魏の皇帝から下賜された鏡が死者の封じ込めに使われるのも変な話であり、この点からしても三角縁神獣鏡が魏の鏡とするのは無理があるはずです。

【結論】三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない

大和に三角縁神獣鏡が入るとしたら、魏志倭人伝の言う所の一大卒を設置した伊都国を介す必要があり、九州と大和で活発な交易のやり取りが無ければなりません。

しかし、大和では北部九州との交易は殆どなかった事も分かっており、大半は伊勢などの東方諸国との交易となっています。

仮に三角縁神獣鏡が魏の銅鏡だったとしても、北部九州との繋がりは殆ど見られず、三角縁神獣鏡だけが大量の遺物としてある事になります。

纏向遺跡でも大陸との繋がりは薄いと考えられ、邪馬台国が大和にあり卑弥呼が魏から下賜されたのが三角縁神獣鏡というのは無理があるはずです。

当サイトでは箸墓古墳も卑弥呼の墓ではないと考えており、邪馬台国近畿説及び大和説は支持してはいません。

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