
| 名前 | ジムリ・リム |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前1761年? |
| 国 | マリ王国 |
| 一族 | 父:ヤハドゥン・リム 配偶者:シプトゥ 兄弟:スム・ヤマム |
| コメント | マリ王国の最後の君主 |
ジムリ・リムはマリ王国(シリア)の最後の君主です。
最後の君主と言えば、滅亡寸前の苦しい状態を思い浮かべがちですが、実際には壮麗な宮殿を持ちマリ王国の全盛期も味わっています。
ジムリ・リムはスム・ヤマムとの後継者争いにアッシリアのシャムシ・アダドの介入があり、ヤムハド王国に亡命しました。
ヤムハド王国では王女のシプトゥを娶らせるなど厚遇し、後にジムリ・リムはアッシリアを駆逐しマリ王国を再興しています。
全盛期にはウガリト王が「宮殿を見てみたい」という程の高い文化と財力を持っていました。
しかし、バビロンのハンムラビが強大になると戦いに敗れ、最終的には滅亡しています。
ジムリ・リムは一代で亡命と全盛期、滅亡を味わった君主となります。
後継者争い
ジムリ・リムはマリ王国のヤハドゥン・リムの後継者として目されていたと考えられています。
ヤハドゥン・リムはシャムシ・アダドを破るなど名将ぶりを発揮しますが、子?のスム・ヤマムにより暗殺されました。
スム・ヤマムはマリ国王になりますが、これに反発しのが、ジムリ・リムとなります。
ジムリ・リムとしてみれば、自らがヤハドゥン・リムの後継者だと考えており、スム・ヤマムが王位を継承するのは許せる事では無かったはずです。
マリ王国は内乱状態となりますが、アッシリアのシャムシ・アダドの介入があり、ジムリ・リムはヤムハド王国に亡命しました。
ジムリ・リムの復活
ジムリ・リムはヤムハド王国へ亡命した後、ヤムハド王の娘を娶りました。
さらに、ヤムハドと協力してアッシリアと戦うことを約束します。
しかし、この戦いには敗北してしまいました。
ヤムハド王スム・エプフもシャムシ・アダドとの戦いに敗れ、領地を奪われています。
ジムリ・リムはヤムハド王国の王女シプトゥを正妃として迎えており、彼は非常に愛妻家であったと伝えられています。
紀元前1781年頃、ジムリ・リムの宿敵であったシャムシ・アダドが死去しました。
シャムシ・アダドの死はアッシリア領内に大きな混乱をもたらし、各地で反乱が多発します。
後継者イシュメ・ダガンは首都シュバト・エンリルにすら入れず、エカラトゥム周辺をかろうじて支配するだけの弱体化した勢力となってしまいました。
さらに、エシュヌンナの攻勢に耐えきれず、イシュメ・ダガンはバビロン第一王朝のハンムラビのもとへ亡命します。
アッシリアの東方の大半はエシュヌンナに奪われ、アッシリアは急速に衰退していきました。
こうした情勢の中、ついにジムリ・リムはマリ王国の復興に成功します。
マリの最盛期とヒトをめぐる対立
シャムシ・アダドの次男でマリ王に据えられていたヤスマフ・アダドは、マリから逃亡し、その後の行方は不明となりました。
一方、ヤムハド王国の支援を受けたジムリ・リムは快進撃を続け、アッシリア西方の領地の大半を奪うことに成功します。
しかし同時期、エシュヌンナはアッシリアの首都シュバト・エンリルを陥落させるなど勢力を拡大しており、これを警戒したジムリ・リムはバビロン第一王朝のハンムラビと同盟を結びました。
ジムリ・リムはエシュヌンナ軍を撤退に追い込み、シリア北部の諸勢力とも同盟を結びながら、勢力を南へと伸ばしていきます。
しかし、南方へ勢力を伸ばしたことで、今度はバビロンのハンムラビと利害が衝突するようになります。
特にヒト(都市)の領有をめぐって、マリ王国とバビロンの関係は次第にぎくしゃくしていきました。
ヒトは天然アスファルトの産地として知られ、接着剤などの重要な資源を産出するため、両国にとってどうしても押さえておきたい地域だったのです。
最終的にはエラムの意向もあり、ヒトはマリが領有することになりました。
これだけを見ると、ハンムラビがマリを嫌悪したようにも思えますが、実際には両国には共通の敵であるエシュヌンナ王イバル・ピ・エル2世が存在しており、互いに援軍を送り合うなど、協力関係も維持されていました。
エラムの侵攻と反エラム同盟の結成
ジムリ・リムはヤムハド王国のヤリム・リムに呼ばれ、ウガリトなどを旅していました。
ジムリ・リムは長い休暇を終えて本国マリへ帰還する予定でしたが、その途中で「エラムがエシュヌンナに攻め込んだ」という報せを受けました。
バビロン王ハンムラビはエラム王を「父」と呼ぶほど関係が深く、エラムと共闘してエシュヌンナを討つと考えられていました。
そこでジムリ・リムは、マリもエラム側に味方し、エシュヌンナ討伐に動くよう命じます。
こうしてエシュヌンナは外交的に孤立してしまいました。
さらに、アッシリアのシャムシ・アダドの子イシュメ・ダガンも、旧領エカラトゥム奪還のために行動を開始します。
うまくいけば、イシュメ・ダガンはアッシリアを復興できる状況でした。
エシュヌンナ王イバル・ピ・エル2世は籠城しましたが、家臣アタムルムの裏切りによってエシュヌンナは一時的に滅亡します。
エシュヌンナとバビロンの関係は「唇亡びて歯寒し」の関係だったようで、エラム王シウェ・パラル・フッパクは、エシュヌンナ滅亡後にバビロンへ圧力をかけ始めました。
エラム王はメソポタミアの諸王から「父」と呼ばれるほどの権威を持っており、いくらハンムラビが名君であっても、単独でエラムに対抗するのは難しかったと考えられます。
こうした情勢の中、マリにはエラムから「バビロンへ出兵せよ」という要請が届きました。
しかしジムリ・リムは、もしマリがエラムに味方してバビロンが滅べば、次はエラムがマリへ攻め込んでくる可能性があると危惧します。
そこでジムリ・リムはバビロン側に味方することを決断し、ヤムハド王国やカトナ王国など近隣諸国とともに反エラム同盟を結成しました。
この時、バビロンにはマリだけでなく、エカラトゥム、ヤムハド、カトナなども味方します。
ハンムラビも反エラムを呼びかけており、今度はエラムが外交的に孤立したと言えます。
ラルサは同盟に参加しなかったようですが、メソポタミア・シリア連合軍とエラムの戦いという構図が成立しました。
反エラム戦争と連合軍の勝利
ジムリ・リムとハンムラビは「互いに単独でエラムと講和しない」ことを誓い、連合軍としてエラムと戦うことになります。
マリ王国はヤムハドや周辺諸国の兵を率いて大軍を編成しました。
エラム軍の本隊はバビロンを攻撃し、ハンムラビ率いるバビロン防衛軍は兵力で劣りながらも奮戦していました。
一方、エラムは北方にも軍を派遣しており、その指揮官はエシュヌンナを裏切ったアタムルムでした。
結果的に、この時のジムリ・リムの判断は的中し、マリ軍の大軍を前にアタムルムはあっけなくメソポタミア・シリア連合側へ寝返ったとされています。
これはまさに「囲魏救趙」のような効果を生み、エラム軍の戦略を崩すことにつながりました。
さらにバビロンでは、ハンムラビがヒリトゥムの戦いでエラム軍を打ち破っています。
エラムの本隊はハンムラビに敗れると北上を始めましたが、北へ進んでもマリ王国を中心とする連合軍が控えていたため、結局は本拠地スーサへ撤退することになりました。
こうして、強国エラムはメソポタミア・シリア連合によって遂に打ち破られたのです。
その後、エシュヌンナは一時的に復興を遂げました。
情勢の転換
しかし、平和が訪れたかと思われた矢先、バビロンがラルサを攻撃しようとしていることが判明します。
ハンムラビは反エラム戦争で共闘した仲間であった一方、ラルサは出兵しなかったため、マリ王国はバビロンに援軍を送りました。
その結果、ラルサは滅亡することになります。
ラルサ王リム・シン1世は、かつてイシン第一王朝を滅ぼした人物ですが、この頃には高齢であり、耄碌していたと考えられています。
ラルサがエラムとの戦いに参加しなかった背景には、この高齢化が影響していた可能性があります。
ハンムラビはラルサを滅ぼしたことで、南メソポタミアの大半を領有することになりました。
マリ王国はハンムラビに協力したものの、マリははるか北方に位置していたため、その見返りはほとんど得られなかったと考えられます。
ハンムラビの拡張とマリの危機
さらにハンムラビは、ラルサ滅亡と同時期にエシュヌンナにも軍を進めました。
エシュヌンナは復興したばかりで、まだ小国に過ぎませんでした。
これを知ったジムリ・リムは、「ハンムラビは危険人物である」と判断し、エシュヌンナへ援軍を派遣しましたが、エシュヌンナは結局滅亡してしまいました。
エシュヌンナが滅んだことで、ハンムラビにとってマリと同盟を結ぶメリットは失われてしまいます。
紀元前1761年頃、ついにマリ王国はバビロンと戦う事態となり、その結果マリ王国は滅亡しました。
マリ滅亡後、東部地域はバビロンが占拠し、西部や北方はヤムハド領となりました。
しかし、ジムリ・リムやその正妃シプトゥがその後どうなったのかについては、史料が乏しく明らかになっていません。