バビロンを首都とした歴代の王朝を紹介します。
バビロンはバビロニア地方にありメソポタミア文明で最も輝いた都市と言えるのではないでしょうか。
尚、バビロンの位置はユーフラテス川の湖畔にあり、古代に最も繁栄した都市の一つになるはずです。
バビロンの王朝が始まる前には、ウバイド人がメソポタミア文明の基礎を作り、シュメール人やアッカド人が覇を競うなども行っています。
バビロンの王朝を古バビロニア(バビロン第一王朝)から新バビロニア(バビロン第十一王朝)まで解説します。
近年日本でも、「バビロンの大富豪」なる本がベストセラーになっており、バビロンは日本でも注目されている古代都市です。
紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされた事で、メソポタミア文明は終焉を迎えたとも言えます。
因みに、世界史の中でもトップクラスの英雄である、アレキサンダー大王が亡くなった場所がバビロンでもあります。
余談ですが、下エジプトの南部にバビロン城なる城塞がありますが、バビロニアにある都市の一つであるバビロンとは別物なので注意してください。
バビロンの場所
バビロンの位置は、現在のイラクの首都であるバクダートの西南約90キロにある古代都市です。
現在バビロンの遺跡は残っており、ユネスコの世界遺産にもなっています。
バビロンの都市はユーフラテス川を挟んで東西に拡がり、城壁により囲まれた都市だった事も明らかになっています。
ただし、現在の発掘状況だとユーフラテス川の東側は調査が進んでいますが、西側は未だに調査が進んでいません。
こうした経緯から、バビロンのこれからの発掘も期待できるはずです。
現在発掘されているバビロンの遺跡は、バビロンの最後の王朝である新バビロニア時代の遺跡が大半を占めています。
バビロン以前のメソポタミア
メソポタミア地方の南部をバビロニア地方と呼びますが、最初はシュメール人が都市国家を作りメソポタミア文明が始まる事になります。
その後にセム語系のアッカド人が、バビロニア北部に入る事になります。
バビロニアは肥沃な三日月地帯に属する事から、農業生産が盛んになって行く事になります。
バビロニア北部のシュメール地方では、ウル、ウルク、ラガシュ、ウンマなどの都市が栄えていきますが、都市同士の熾烈な戦いも起こる事になります。
シュメール地方を統一したウンマ王ルガルザゲシは、ウルクに本拠地を移しウルク第三王朝を建国し、シュメール地方の大半を統一します。
それに対して、バビロニア北部にアッカド王サルゴンが現れ、ルガルザゲシとサルゴンの間で天下分け目の戦いが起こる事になったわけです。
ルガルザゲシに勝利したサルゴンは初のメソポタミア統一と成し遂げ、アッカド帝国はナラム・シンの時代に全盛期となりますが、その後は衰退に向かう事になります。
アッカド帝国が衰えるとシュメール人が再び勢力を盛り返し、ウル第三王朝を建国します。
シリア内陸部では北方のインド・ヨーロッパ語族(アーリア系)が、アムル人のいた土地を奪いミタンニ王国を建国される事になりました。
ミタンニに土地を奪われたアムル人は大量の難民となり、ウル第三王朝に訪れた事から、ウル第三王朝では社会混乱を引き起こし、最後はエラム人により滅亡しています。
ウル第三王朝が崩壊した事で、バビロニア地方は大混乱となり群雄割拠状態となります。
イシン・ラルサ時代
バビロンの地はイシン・ラルサ時代は、ウル第三王朝の崩壊から古バビロニアのハンムラビ王がバビロニアを統一するまでの時代を指します。
この時代はウル第三王朝から独立勢力となったイシュビエラが建国したイシン第一王朝やラルサ、ウルク、バビロンなどの都市が覇権を争う事になります。
メソポタミア地方は、攻めやすく守りにくい地形であり、戦乱は200年も続く事になりました。
この時代にアムル人達もバビロニア地方の北部に定住し覇権争いの為の戦いを繰り返しています。
バビロン第一王朝(古バビロニア)の時代
難民となりアムル人はバビロニア地方に押し寄せますが、群雄割拠を制したのはアムル人のバビロン第一王朝(古バビロニア)でした。
ただし、ウル第三王朝崩壊直後は、地方都市の一つでしかありません。
バビロン第一王朝は、六代目のハンムラビ王の代で加速的に発展していきます。
先にも述べた様にハンムラビ王はハンムラビ法典を制定し、法律で世を治めようとした人物でもあります。
しかし、ハンムラビ王が亡くなりサムスイルナが即位すると、反乱やエラム人の侵攻に悩まされる事になったわけです。
バビロニアの南部では海の国第一王朝が勃興し、北部でカッシート王国が台頭するなどバビロン第一王朝は勢力を失っていきます。
バビロン第一王朝はサムスディターナの代にヒッタイトのムルシリ1世の攻撃により滅亡する事になります。
バビロン第一王朝のサムスディターナの軍は青銅の武器であり、ヒッタイト軍は鉄の武器を持っており武装度の差で敗れた話しもあります。
海の国第一王朝の時代
ヒッタイトはバビロンの略奪を行うと本国に引き返し、バビロンは空白地となります。
空白地であったバビロンにメソポタミア南部にいた海の国第一王朝が占拠する事になります。
バビロン第一王朝崩壊後に、バビロンを占拠した事から海の国第一王朝はバビロン第二王朝と呼ばれる事もあります。
ただし、海の国第一王朝のバビロン支配は長く続かず、北方のカッシート人の支配下となります。
海の国第一王朝が存在した時代は、バビロニアの北方がカッシート王国、南方が海の国第一王朝というバビロニア版の南北朝時代となっています。
後に、海の国第一王朝は北方のカッシート王国に滅ぼされる事になります。
余談ですが、海の国第二王朝(バビロン第五王朝)を建国するシンパル・シバクは海の国第一王朝の末裔を名乗っています。
カッシート王国の時代
カッシートの意味は「出稼ぎ」です。
バビロン第一王朝に出稼ぎで来ていた事から、カッシート人と呼ばれる様になった話があります。
海の国第一王朝を滅ぼしたカッシート王国(バビロン第三王朝)は、350年間存続した話もあり、バビロンの歴代王朝の中で最長となります。
カッシート王国時代のオリエントの情勢は、アナトリア半島に鉄の強国と呼ばれたヒッタイトがいて、シリア内陸部にはミタンニ、エジプトにはエジプト新王国がいました。
それらの強国に対し、常に第三、第四の勢力となっていのがカッシート王国です。
ミタンニ王国がヒッタイトに滅ぼされると、アッシリアが独立し強大な勢力となり、カッシート王国を苦しめる事になります。
軍事力はカッシート王国よりもアッシリアの方が優れていた話がありますが、文化面ではカッシートが圧倒していたとする見方が優勢です。
バビロンは文化の中心地であり、大いに発展していたのでしょう。
尚、紀元前1200年のカタストロフで、海の民が地中海沿岸で暴れ回り、オリエントの地域は大混乱となります。
カッシート王国も衰退し、紀元前1155年にエラム人に滅ぼされています。
イシン第二王朝の時代
イシン第二王統の別名がバビロン第四王朝です。
イシン第二王朝はメソポタミア北部の一大勢力であるアッシリアに攻め込んだ話もあり初期は強盛でした。
イシン第二王朝の全盛期は第4代国王であるネブカドネザルの時代だとされています。
ネブカドネザルは偉大な王ともされていますが、アッシリアの攻撃には二度失敗した記録もあります。
ネブカドネザルの評価が高い理由は、エラムに攻め込みマルドゥク神像を取り戻した事にある様です。
イシン第二王朝は、イシン(都市名)を本拠地にしていましたが、6代目のマルドゥク・ナディン・アヘの時代までにはバビロンに首都を移しています。
イシン第二王朝はカッシート王国の文化や社会を引き継いだとも考えられています。
ただし、最後はアッシリアに首都のバビロンまで攻め込まれ、バビロンの王宮が炎上した話もあります。
こうした混乱の中で、メソポタミア地方は大飢饉に襲われ、イシン第二王朝はアラム人が大挙する混乱の中、王が消息不明になります。
イシン第二王朝は11人の王が即位し、1026年までバビロンを支配したと考えられています。
海の国第二王朝の時代
海の国第二王朝は海の国第一王朝の後裔だと考えられています。
シンバル・シパクがバビロニア南部で独立し、後にバビロンを制圧した事から、別名としてバビロン第五王朝と呼ばれる事になります。
ただし、海の国第二王朝がバビロンを支配したのは、20年足らずであり、僅か3代で明け渡す事になります。
海の国は滅んだわけではなく、アッシリアのバビロニア支配にも抵抗した話が残っています。
海の国は謎が多く分かっている事は少ないと言えるでしょう。
バズ王朝の時代
バズ王朝は王名表によれば、エウルマ・シャキン・シュミを初代とし3代の王が即位したと伝わっています。
バズ王朝がバビロン第六王朝と呼ばれていますが、紀元前1003年から紀元前984年までの20年ほどの存続となっています。
海の国第二王朝と同様に社会混乱が激化し、バビロンの地を保持する事が出来なかったのでしょう。
エラム王朝時代
エラム王朝は、メソポタミア地方の東方にいるエラム人が支配した時代を指します。
エラム王朝はバビロン第七王朝とも呼ばれていますが、支配した長さは僅か5年間でありマル・ビティ・アプラ・ウツルの1代だけの王朝となっています。
イシン第二王朝崩壊後の混乱が継続されているとも言えます。
エラム王朝は紀元前983年から紀元前978年までバビロンを支配したと考えられています。
イシン第二王朝が崩壊してからの、海の国第二王朝、バズ王朝、エラム王朝はバビロンの王朝には数えられていますが、どれも長続きしなかったと言えるでしょう。
バビロン第五王朝から第七王朝までは混乱の時代でもあります。
E王朝時代
E王朝時代は分かっている事は極めて少ないです。
バビロン第八王朝とも呼ばれていますが、詳細は不明と言ってもよいでしょう。
ただし、E王朝の六代目の王であるマルドゥク・ザキル・シュミ1世が即位すると反乱に悩まされ、アッシリアのシャルマネセル3世が二度に渡ってバビロンに遠征した話があります。
シャルマネセル3世の援軍を得た事で、マルドゥク・ザキル・シュミ1世は内乱を鎮圧する事に成功します。
バビロンの王であるマルドゥク・ザキル・シュミ1世とアッシリア王シャルマネセル3世が握手するという珍しい浮彫が残っています。
尚、アッシリアは一時は勢力を縮小し、アラム人が各地で都市を作り勢力を増しますが、アッシリアは再び強国に返り咲く事になります。
バビロン第九、第十王朝の時代
メソポタミア北部では、アッシリアが再び強国となります。
アッシリア王のティグラト・ピレセル3世はアッシリア王だけではなく、バビロンの王も兼ねる事になります。
ティグラト・ピレセル3世の即位を以って、アッシリアの帝国期が始まったとも考えられています。
バビロン第九王朝は第十王朝は名前はバビロンですが、実態はアッシリアに支配された状態です。
バビロン第十王朝のアッシュールバニパルの時代にアッシリアは高大な領土を手に入れる事になります。
アッシュールバニパルはエジプト遠征まで行いテーベを陥落させ、上エジプトまで支配したと考えられています。
アッシリア帝国の最盛期には、バビロニアやメソポタミア地方だけではなく、エジプトも含めたオリエント全域に及びました。
ただし、広大な領域を支配するのは難しく、すぐにエジプトは独立しエジプト第十八王朝が勃興する事になります。
アッシュールバニパルは、アッシュールバニパルの図書館を建設した事でも有名です。
尚、シュメール人の頃からメソポタミアの歴代王朝を苦しめたエラムは、アッシリアが648年に滅ぼす事になります。
エラムを滅ぼしたアッシリアもアッシュールバニパルの死後に弱体化する事になります。
アッシリア帝国は反乱が相次いだ事から、領土を一気に縮小させバビロンの地も失う事になります。
紀元前614年にはメディアによりアッシリアの首都であるアッシュールが陥落する事になったわけです。
アッシリアはアッシュールバニパル死後に僅か19年で滅亡しました。
新バビロニアの時代
話を戻しますが、アッシュールバニパルが亡くなった混乱を利用し、メソポタミア南部のカルデアの属州総督であったナボポラッサルが紀元前625年に反乱を起こす事になります。
ナボポラッサルはバビロンを占拠するとバビロンの王を宣言し、新バビロニア(バビロン第十一王朝)を建国する事になります。
ナボポラッサルは過去にはカルデア人だとする説もありましたが、現在はアラム人ではないかと考えられています。
ナボポラッサルは海の国の出身とする説もあり、正確な所は不明と言えるでしょう。
新バビロニアはメディアと同盟を結びアッシリアを滅ぼす事に成功します。
ナボポラッサルはバビロンの復興にも尽力し、イシュタル門の造営やバビロンの空中庭園があったともされています。
バビロンの空中庭園は、古代ギリシアのフィロンが選んだ世界の七不思議としても有名です。
新バビロニアはネブカドネザル2世の時代に版図を拡大し、ユダ王国を征服するなども行っています。
ユダ王国を滅ぼした時に多数のユダヤ人をバビロンに連行した話があり、バビロン捕囚とも呼ばれています。
新バビロニアは多くの都市を占領し、メソポタミア文明最後の煌めきと言ってもよいでしょう。
ただし、新バビロニアも紀元前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世により滅ぼされています。
新バビロニアの滅亡を以ってバビロンの王朝は終わりを告げる事になります。
新バビロニアの滅亡はメソポタミア文明の終焉とも言えそうです。
アレキサンダー大王とバビロン
バビロンはアケメネス朝ペルシアの傘下の都市となります。
アケメネス朝ペルシアは首都をスサやペルセポリスにしたため、メソポタミアにあるバビロンを首都に置く事はありませんでした。
マケドニアがフィリッポス2世の元で強大となり、カイロネイアの戦いでアテネやテーベなどの都市を撃破し、コリントス同盟を結成しスパルタを除く全ギリシアポリスを傘下とします。
マケドニアの快進撃は止まらず、アレキサンダー大王は東方遠征を行いイッソスの戦いやガウガメラの戦いでアケメネス朝ペルシアのダレイオス三世を破る事になります。
バビロンの入城したアレキサンダーですが、さらに東方に兵を進めインドまで遠征を行う事になりました。
尚、アレキサンダー大王は紀元前323年に32歳の若さで亡くなってしまいますが、アレキサンダー大王が亡くなった場所はバビロンです。
歴史ある王都でアレキサンダーが亡くなったのは、感慨深しと感じます。
ただし、アケメネス朝ペルシア崩壊後はバビロンは急速に衰退したと伝わっています。